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競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2014年06月28日

海の藻くずとなった官兵衛次男「熊之助」

【軍師・黒田官兵衛百物語41話】
武功に焦り16歳で海の藻くずとなった黒田長政の弟「熊之助」


軍師・黒田官兵衛百物語

官兵衛の子と言えば、関ヶ原の合戦で家康勝利を導いた第一の功労者として
知られる黒田長政ですが、次男に熊之助という男子がいました。子に縁の薄か
った官兵衛夫婦は、後藤又兵衛や、玉松(後の黒田一成)を引き取ったり、妹の
子・松寿などを養子にとって育てていました。

そして、一人っ子だった長政が生まれた十五年後の天正十一年(1583)に二
人目の男の子として熊之助を授かったのでした。

長男・長政の出生から、随分と時をおいての二人目の男の子の誕生ということ
で、官兵衛夫婦はもちろん、黒田一門にとっても希望となりました。ところが、
熊之助について残されている記録と言えば、誕生につづくものとしては、死亡
についての報告のみです。

慶長二年(1597)に慶長の役(第二次朝鮮出兵)が始まり、官兵衛と長政は
朝鮮半島へ渡り軍を進めていました。

この時、16歳だった熊之助は、黒田氏本城の豊前中津城(大分県中津市)で
留守をしていたのですが、思い立って若い家臣を集めて、父と兄の加勢にと
朝鮮にむけて豊前から船を出したのです。

関門海峡から玄界灘へと出ると、そこへ折からの暴風。
熊之助は、ひき連れた家臣らとともに海に呑み込まれ溺死してしまいます。

官兵衛夫婦は、ほとほと子には縁がなかったようです。

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Posted by Frco.Don at 09:43Comments(0)シメオン官兵衛孝高

2014年06月27日

【軍師・黒田官兵衛百物語40話】黒人奴隷を洗ってみた織田信長

【軍師・黒田官兵衛百物語】

前回はヨーロッパの宣教師が見た信長と秀吉の野望を紹介しましたが、今回も宣教師と
6月22日の軍師官兵衛で出てきた黒人のお話です。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノという宣教師がおりました。司祭でありイエズス会東インド管
区の巡察師という、イエズス会のアジアにおける布教全体を監督する立場にあった人です。

秀吉の天下において、官兵衛は、伴天連追放令を発令した後に帰国した天正遣欧使節と
会うことを拒絶する秀吉を説いて、使節四人の聚落第での謁見を実現させました。その天
正遣欧使節を発案し、実行したのがアレッサンドロ・ヴァリニャーノでした。

▶宣教師が「お土産」にした黒人奴隷を洗ってみる信長

時計の針を本能寺の変の前年に戻して、天正九年(1581)早春。

ヴァリニャーノは滞在していた豊後府内から海路、織田信長と会うために上洛します。
キリスト教に対して保護政策をとる信長への挨拶という目的があったこの機会に、ヴァリニ
ャーノは黒人奴隷を手みやげにします。

会見は京都・本能寺を場所に選び行われましたが、同年2月にヴァリニャーノの一行が堺
につくと、同道した黒人奴隷のことが町衆のあいだで大変な話題になり、彼が滞在した修
道院に野次馬が密集して、ケガ人が出たとも、フロイスの「日本史」は述べています。

本能寺でこの黒人奴隷をヴァリニャーノから献上された信長は、その肌の黒いことが本物
なのか試すために、目の前で家来らに徹底的に洗わさせたといいいます。

彼を受け取った信長は「弥助」と名前を与え、長男の信忠に仕えさせます。

▶奴隷を人間にして家臣にまで引き揚げた信長と人ではないと言った光秀

そして天正十年(1582)6月2日。明智光秀が信長を本能寺に襲います。二条城の信忠も
攻められますが、弥助は武器をとって明智軍を相手に最後まで戦ったそうです。

最後には生け捕りにされるのですが、「その者は人ではなく、動物だ。罰するに値しない」と
の光秀の一言で釈放されたと言われています。弥助と信長の縁は本能寺で始まり、本能寺
で終わったのでした。その後の彼の消息については、何もわかっていません。

Frco Don・記
あしたにつづく

  


Posted by Frco.Don at 11:23Comments(0)シメオン官兵衛孝高

2014年06月25日

ローマ法王、欧州諸候に大陸進攻計画宣言の信長・秀吉

【軍師・黒田官兵衛百物語39話】
 官兵衛の主、信長と秀吉の天下は大陸へと広がる

6月22日に放送された大河ドラマ「軍師官兵衛」の26回目では、天正十年(1582)の
新年を迎えた安土城へ拝賀の挨拶に訪れた、羽柴秀吉と官兵衛を相手に、織田信
長が地球儀を示しながら「余は天下布武を成し終えた後には、息子の信忠に、日本
国を譲り宣教師たちが来た道を逆にたどるつもりだ」と語る場面がありました。

本能寺の変で落命することになる直前の、その6月。信長は「毛利を平定し、日本六
十六ヶ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナ(中国)を武略で征服
し、諸国を自らの子息たちに分け与える」と語ったと、宣教師ルイス・フロイスが当 時
の日本国内での出来事を書き留めた「日本史」に述べています。

大河ドラマでの信長の台詞は、海外へと目を向ける若々しい夢を語るものになってい
ますが、この「日本史」にある記述を元にしたもので、事実は大陸進攻の意図を述べ
たものでした。

秀吉もまた、信長の死後、天下人としての立場を確かなものにした、天正14年の3月
に大坂城を訪れたイエズス会日本管区副管区長のガスパル・コレリョに対して、
「日本全国を無事安穏に統治したく、それが実現したうえは、この国を弟の美濃殿(羽
柴秀長)に譲り、世は自ら専心し朝鮮とシナを征服することに従事したい」と、語ったと
同じく「日本史」にあります。

イエズス会の宣教師たちは、信長や秀吉の言動を観察し、公式の書簡に書きとめ、
ローマ法王庁へと報告していました。報告は法王を通じて、ヨーロッパ諸候へもうわさ
として広がっていました。

信長も秀吉も、己の意志がヨーロッパを中心とした世界に向けて伝えられることを知っ
て、宣教師たちを前に語っていたのです。二人は、世界の王・諸候に向けて大陸進攻
計画の実行を宣言していたのでした。

軍師・黒田官兵衛百物語 



  


Posted by Frco.Don at 16:15Comments(0)シメオン官兵衛孝高

2014年06月24日

官兵衛の孫は荒木村重のおいっ子に馬術を習っていた!

官兵衛の孫は荒木村重のおいっ子に馬術を習っていた!【軍師・黒田官兵衛百物語38話】

軍師・黒田官兵衛百物語

前回、長政は意外にも乗馬が得意ではなかったと言う話しにつづけて、今日は、官兵衛の
愛馬は凶事をもたらす凶相だったという、江戸時代中期に成立した逸話集「常山紀談」にあ
る話しを紹介します。

●官兵衛はクリスチャンだから迷信を信じない?

ウマは体のあちらこちらに旋毛(つむじ)を見せていることがあるのですが、特に、頭部に旋
毛があるのは凶相だという迷信が古くはありました。官兵衛が乗っていたウマがまさに、そ
れだったのです。

しかし、官兵衛は、そのことについて人から聞かれると、「人間は万物の霊長だという、その
人間の運がウマの毛並みなどに左右されるものではない」と答えていたといいます。

「万物の霊長」という語は、中国の古典「書経」にあるものですが、迷信を気にしない官兵衛
のこうした姿勢は、キリスト教への信仰と関わりがあったものかもしれません。
人間以外の生物に霊性を認めないという、キリスト教の教理を根拠にしたもののように思わ
れます。

●家康がほめた孫の馬術

さて、変って官兵衛の孫・忠之、のちの福岡藩二代は乗馬の名手だったという話しがありま
す。

忠之は、14歳になった元和元年(1615)に、京都で、徳川家康と将軍秀忠に馬術を披露す
るということがありました。

この時、家康は忠之の見事な手綱さばきに感心し、誰に習ったのかと聞きます。

忠之の馬術の師は、信長に対して反旗を翻した際に、官兵衛を有岡城の土牢に幽閉のし
た荒木村重の甥にあたる、荒木十左衛門元満でした。

元満は村重の信長に対する謀反には加担しなかったものの、あおりを喰う形で父親と共に
浪人していたところを、縁があって黒田家に拾われ家臣となっていたのです。
 
その後、元満は、家康に請われて徳川直臣となります。
忠之を乗馬の名手に育てた技量を家康から買われたわけです。
江戸時代初期。現代などよりも、人材の流通がずっと自由に行われていたようです。


  


Posted by Frco.Don at 19:35Comments(0)シメオン官兵衛孝高

2014年06月23日

官兵衛百物語37「長政、田にウマの足を取られる、の巻」

官兵衛百物語

官兵衛の嫡子・松寿丸が元服し、長政と名を改め黒田長政という勇猛で知られることになる侍が誕生すること
になります。その長政の初陣は天正10年(1582)4月26日。信長が本能寺とともに灰となる一ト月半前のこと
で、15歳の時の話しでした。

同年、織田信長の命を受け羽柴秀吉軍3万は、備中国南東部に侵入し、清水宗治を城主とする高松城を囲み、
よく知られた水攻めへと戦いは展開していきます。高松城の攻囲にかかるまでの秀吉軍は、備中境の毛利方諸
城を落としながら進軍しますが、それら諸城の一つ、冠山城攻略戦が長政の初陣となりました。

初陣を果たして後には、秀吉による朝鮮出兵時に退却してくる小西行長軍を援護し、収容する。苦境に陥った
加藤清正軍に先鋒となって救援に駆けつける。関ヶ原の合戦では、開戦と同時に西軍本営に石田三成陣を急
襲するなど、数々の武勇で知られることになる長政。

ところが、前回でふれたように、どうやら馬術が苦手だったようです。

天正15年(1587)12月のことですが、黒田氏が豊前六郡の領主となった直後に、長政は、鎌倉時代からの豊
前の国人領主・宇都宮氏の当主・宇都宮鎮房に戦を仕掛けます。官兵衛も、重臣達も、この時の出陣には反対
したと伝えられています。

おして長政は2千の兵を従え、鎮房が籠れる豊前の山奥深い谷そのものを郭にしたような城井城を攻めるの
ですが、案の定、不慣れな山岳戦に引き込まれて敗走することになります。

敗走途中、長政は回りを固める家臣達が止めるのを押し切り、ウマの首を返して反撃にかかろうとします。「馬を
引返しかゝり給ひしが、深田に馬を乗り入れ引くどもうてども進退せず」と黒田家譜は、その時のことを語りますが、
長政は、ウマを田に落としてしまい身動きがとれなくなってしまうのです。

結局、家臣のウマに乗り換えて長政はようやく窮地を脱し、ほうほうの体で居城まで戻ることになります。
攻防最中の、ウマの乗り回しでの失態とは、一生の不覚です。家臣にウマの口を取られて諌言されるなどのこと
も、他の戦いの場面として数度見られます。猛将と知られている長政の意外な盲点を伝える話しでした。




  


Posted by Frco.Don at 23:43Comments(0)シメオン官兵衛孝高

2014年06月22日

【軍師・黒田官兵衛百物語36回】岡田官兵衛の乗る馬の顔に白い斑紋にちょっと待った!

▶▷へえ!戦国時代にはいなかった!
▶▷岡田官兵衛の乗る馬の顔に白い斑紋にちょっと待った


軍師・黒田官兵衛百物語、全巻はこちら

ウマにも、乗り手に好事をもらす相を持つものと、災厄をもたらす悪相を持つものがいる
らしいのですが、官兵衛はあえて悪相のウマにの乗っていたという話しが「翁草」かなに
か、軍記ものにあったと覚えています。ウマについて述べると、意外に思われますが息子
の長政は戦場で二度も馬にかかわる失敗があり、騎乗が下手だったようです。

▶歴史マニアの岡田准一といえども知らなかった?

悪相のウマの話しと、長政の下手な馬術についての話しは、またの機会に譲りとして今
日は、NHK大河の岡田准一・官兵衛が股がっているウマの話しです。

准一・官兵衛が乗るウマの顔には目元から鼻先に白い線(流星などとその道ではいうの
ですが)が入っています。毎回のオープニングのタイトルバックで、准一・官兵衛は高原
状の台地を流星を顔に班下したウマで駆けています。

実は、これはありえないことで、毎回、気になってしかたありません。

▶小回りのきく在来馬の顔と足に白い斑紋なし

在来馬といわれる、当時の侍が騎乗していた列島のウマには顔面や脚部に白い斑紋が
入ったものはいませんでした。准一・官兵衛が股がっているウマは、多分、サラブレットな
どの軽種とされる種類のウマですが、体高についても当時のウマは軽種馬よりも10セン
チから20センチは低い小柄なものでした。小柄で機敏な動きがとれ、戦場では精悍な
活躍が期待できたのです。

かつて戦陣で侍を背にしていた8種の列島固有のウマが、現在でも全国に8 ヶ所で飼育
あるいは半野生の状態で保護されていますが、いずれも顔や脚への白斑はありません。

ドラマでの話しですから、まあ、いいのですが、ちょっと気になる大河・官兵衛の話しでした。



  


Posted by Frco.Don at 10:26Comments(0)シメオン官兵衛孝高