2014年06月23日
官兵衛百物語37「長政、田にウマの足を取られる、の巻」
官兵衛百物語
官兵衛の嫡子・松寿丸が元服し、長政と名を改め黒田長政という勇猛で知られることになる侍が誕生すること
になります。その長政の初陣は天正10年(1582)4月26日。信長が本能寺とともに灰となる一ト月半前のこと
で、15歳の時の話しでした。
同年、織田信長の命を受け羽柴秀吉軍3万は、備中国南東部に侵入し、清水宗治を城主とする高松城を囲み、
よく知られた水攻めへと戦いは展開していきます。高松城の攻囲にかかるまでの秀吉軍は、備中境の毛利方諸
城を落としながら進軍しますが、それら諸城の一つ、冠山城攻略戦が長政の初陣となりました。
初陣を果たして後には、秀吉による朝鮮出兵時に退却してくる小西行長軍を援護し、収容する。苦境に陥った
加藤清正軍に先鋒となって救援に駆けつける。関ヶ原の合戦では、開戦と同時に西軍本営に石田三成陣を急
襲するなど、数々の武勇で知られることになる長政。
ところが、前回でふれたように、どうやら馬術が苦手だったようです。
天正15年(1587)12月のことですが、黒田氏が豊前六郡の領主となった直後に、長政は、鎌倉時代からの豊
前の国人領主・宇都宮氏の当主・宇都宮鎮房に戦を仕掛けます。官兵衛も、重臣達も、この時の出陣には反対
したと伝えられています。
おして長政は2千の兵を従え、鎮房が籠れる豊前の山奥深い谷そのものを郭にしたような城井城を攻めるの
ですが、案の定、不慣れな山岳戦に引き込まれて敗走することになります。
敗走途中、長政は回りを固める家臣達が止めるのを押し切り、ウマの首を返して反撃にかかろうとします。「馬を
引返しかゝり給ひしが、深田に馬を乗り入れ引くどもうてども進退せず」と黒田家譜は、その時のことを語りますが、
長政は、ウマを田に落としてしまい身動きがとれなくなってしまうのです。
結局、家臣のウマに乗り換えて長政はようやく窮地を脱し、ほうほうの体で居城まで戻ることになります。
攻防最中の、ウマの乗り回しでの失態とは、一生の不覚です。家臣にウマの口を取られて諌言されるなどのこと
も、他の戦いの場面として数度見られます。猛将と知られている長政の意外な盲点を伝える話しでした。

官兵衛の嫡子・松寿丸が元服し、長政と名を改め黒田長政という勇猛で知られることになる侍が誕生すること
になります。その長政の初陣は天正10年(1582)4月26日。信長が本能寺とともに灰となる一ト月半前のこと
で、15歳の時の話しでした。
同年、織田信長の命を受け羽柴秀吉軍3万は、備中国南東部に侵入し、清水宗治を城主とする高松城を囲み、
よく知られた水攻めへと戦いは展開していきます。高松城の攻囲にかかるまでの秀吉軍は、備中境の毛利方諸
城を落としながら進軍しますが、それら諸城の一つ、冠山城攻略戦が長政の初陣となりました。
初陣を果たして後には、秀吉による朝鮮出兵時に退却してくる小西行長軍を援護し、収容する。苦境に陥った
加藤清正軍に先鋒となって救援に駆けつける。関ヶ原の合戦では、開戦と同時に西軍本営に石田三成陣を急
襲するなど、数々の武勇で知られることになる長政。
ところが、前回でふれたように、どうやら馬術が苦手だったようです。
天正15年(1587)12月のことですが、黒田氏が豊前六郡の領主となった直後に、長政は、鎌倉時代からの豊
前の国人領主・宇都宮氏の当主・宇都宮鎮房に戦を仕掛けます。官兵衛も、重臣達も、この時の出陣には反対
したと伝えられています。
おして長政は2千の兵を従え、鎮房が籠れる豊前の山奥深い谷そのものを郭にしたような城井城を攻めるの
ですが、案の定、不慣れな山岳戦に引き込まれて敗走することになります。
敗走途中、長政は回りを固める家臣達が止めるのを押し切り、ウマの首を返して反撃にかかろうとします。「馬を
引返しかゝり給ひしが、深田に馬を乗り入れ引くどもうてども進退せず」と黒田家譜は、その時のことを語りますが、
長政は、ウマを田に落としてしまい身動きがとれなくなってしまうのです。
結局、家臣のウマに乗り換えて長政はようやく窮地を脱し、ほうほうの体で居城まで戻ることになります。
攻防最中の、ウマの乗り回しでの失態とは、一生の不覚です。家臣にウマの口を取られて諌言されるなどのこと
も、他の戦いの場面として数度見られます。猛将と知られている長政の意外な盲点を伝える話しでした。
