2016年10月07日
黒田官兵衛のものなど、福岡藩に伝わる立て膝肖像画の話
筑前黒田家中には、立て膝をついた姿の肖像画が、多々伝えられている。
例を上げると、黒田孝高をはじめ藩主では、長政・忠之。家臣では黒田
一任・栗山大膳・母里太兵衛・井上九郎右衛門などなど。
で、「坐る」と云うことについて調べて知ったことは、江戸時代半ばま
で、胡座が当たり前で、くつろいだ坐り方としては立て膝か横座りだっ
たと云う事。茶室が二畳や三畳の狭い広さになる前は、茶席でも胡座だ
ったそうで、これには驚いた。
立て膝で坐る肖像画は、古くは柿本人麻呂・西行・宗祇・細川幽斎など
のものが伝わる。おもしろいのは、女性による立て膝姿の肖像画。徳川
家康長女・亀姫、家光生母・小督の方、芭蕉門人の河合智月、豪商三井
高利の妻、徳川慶喜妻・美賀子などが、立て膝姿の肖像画を遺している
そうな。
庶民一般が正座をするやうになるのは、明治維新後の事なのだそうだ。
例を上げると、黒田孝高をはじめ藩主では、長政・忠之。家臣では黒田
一任・栗山大膳・母里太兵衛・井上九郎右衛門などなど。
で、「坐る」と云うことについて調べて知ったことは、江戸時代半ばま
で、胡座が当たり前で、くつろいだ坐り方としては立て膝か横座りだっ
たと云う事。茶室が二畳や三畳の狭い広さになる前は、茶席でも胡座だ
ったそうで、これには驚いた。
立て膝で坐る肖像画は、古くは柿本人麻呂・西行・宗祇・細川幽斎など
のものが伝わる。おもしろいのは、女性による立て膝姿の肖像画。徳川
家康長女・亀姫、家光生母・小督の方、芭蕉門人の河合智月、豪商三井
高利の妻、徳川慶喜妻・美賀子などが、立て膝姿の肖像画を遺している
そうな。
庶民一般が正座をするやうになるのは、明治維新後の事なのだそうだ。
2015年02月25日
官兵衛室・ご実家の話
【櫛橋氏】 引用「武家家伝」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kusihasi.html
定紋・三つ巴
藤原氏/武蔵七党児玉党後裔?
姓氏苗字事典「櫛橋」項より。
櫛橋氏は『印南郡誌』に、「赤松則景の子、八郎有景を祖とす」とみえるが、
赤松則景は宇野則景の誤りであり、八郎有景は佐用郡櫛田に住した櫛田氏の
祖である。ちなみに、『赤松家風条々事』や『姓氏家系大辞典』なども八郎
有景の後裔説をとっているが、こちらも誤りであることはいうまでもない。
加えて、櫛橋という地名は、赤松氏発祥の地である佐用郡内はもとより、播
磨国には見当たらないのである。
一方、『志方町誌』に記載された「櫛橋氏略系図」がある。それによると、
櫛橋氏は藤原鎌足に始まり、藤原北家の摂関家→世尊寺家→櫛橋氏とつなが
っている(下記参考系図参照)。すなわち、摂政・太政大臣藤原師輔に始ま
り、孫行成から伊経までは世尊寺流書家の公卿であり、伊経は鎌倉時代前期
の嘉禄三年(安貞元年=1227)に没している。そして、伊経の子が櫛橋氏の
祖という伊朝となっている。
伊朝は「櫛橋家は藤原氏で伊朝を元祖とし、代々赤松氏の家臣であった。伊
朝も国難に赴いて戦死したが...」と、元弘の変(1331)以後、南北朝時代は
じめの人物として登場する。伊経と伊朝の間には一世紀余の断絶がみられ、
こちらも信憑性に乏しいといわざるを得ない。
櫛橋氏の系譜に関する史料としては、建仁寺・南禅寺の住持を歴任した禅僧
天隠龍沢の『翠竹真如集』に見える「櫛橋字渓居士賛」「櫛橋万善居士寿像
賛并序」がある。そして、後者には初代とされる伊朝から、万善居士則伊ま
での系譜が記されている。しかし、伊朝以前の櫛橋氏に関する記述はない。
画像/伴大納言絵巻
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kusihasi.html
定紋・三つ巴
藤原氏/武蔵七党児玉党後裔?
姓氏苗字事典「櫛橋」項より。
櫛橋氏は『印南郡誌』に、「赤松則景の子、八郎有景を祖とす」とみえるが、
赤松則景は宇野則景の誤りであり、八郎有景は佐用郡櫛田に住した櫛田氏の
祖である。ちなみに、『赤松家風条々事』や『姓氏家系大辞典』なども八郎
有景の後裔説をとっているが、こちらも誤りであることはいうまでもない。
加えて、櫛橋という地名は、赤松氏発祥の地である佐用郡内はもとより、播
磨国には見当たらないのである。
一方、『志方町誌』に記載された「櫛橋氏略系図」がある。それによると、
櫛橋氏は藤原鎌足に始まり、藤原北家の摂関家→世尊寺家→櫛橋氏とつなが
っている(下記参考系図参照)。すなわち、摂政・太政大臣藤原師輔に始ま
り、孫行成から伊経までは世尊寺流書家の公卿であり、伊経は鎌倉時代前期
の嘉禄三年(安貞元年=1227)に没している。そして、伊経の子が櫛橋氏の
祖という伊朝となっている。
伊朝は「櫛橋家は藤原氏で伊朝を元祖とし、代々赤松氏の家臣であった。伊
朝も国難に赴いて戦死したが...」と、元弘の変(1331)以後、南北朝時代は
じめの人物として登場する。伊経と伊朝の間には一世紀余の断絶がみられ、
こちらも信憑性に乏しいといわざるを得ない。
櫛橋氏の系譜に関する史料としては、建仁寺・南禅寺の住持を歴任した禅僧
天隠龍沢の『翠竹真如集』に見える「櫛橋字渓居士賛」「櫛橋万善居士寿像
賛并序」がある。そして、後者には初代とされる伊朝から、万善居士則伊ま
での系譜が記されている。しかし、伊朝以前の櫛橋氏に関する記述はない。
画像/伴大納言絵巻
2014年12月16日
攻略!福岡城、一之巻「縄張り篇」 福岡城設計経緯
黒田官兵衛孝高 如水。
その人生の集約作品とも言える、息子長政と共同して建設した福岡城。
その福岡城建設の物語を動画にまとめました。
その一之巻「縄張り」編。
「縄張り」とは、設計。則ち、福岡城設計の経緯です。
2013年10月23日
▶▷ 筑前福岡藩黒田家 菓子御用「松屋利右衛門」その二
昨夜につづいて二回目。福岡藩黒田家の菓子御用「松屋利右衛門」さんの話し。筑前續風土記、博多津要録など、
筑前博多の江戸時代を知る上で重要な歴史史料中に十数ヶ所、その屋号が見えます。
《以下、本文》
「鶏卵素麺」の国内での製造の始まりについては、宮本又次氏の指摘よりも古く、本編にふれたように西暦
一六〇〇年以前に西九州のいずれかのキリスト教修道院で成立したと考えられる「南蛮料理書」に、その製法が
記されていることから、戦国時代末期まで遡ると考えられる。
「鶏卵素麺」は、戦国時代にヨーロッパからやってきた、宣教師達が伝えた南蛮菓子なのだ。
現在のスペイン南部の都市・セビリアのサン・レアンドロ修道院の聖週間には、修道女達の手によって作られ
た「天使の髪」という意味合いのイェマ(Yema)という菓子がふるまわれる。このイェマこそ、鶏卵素麺の源
流だとされている。ポルトガルでは、「鶏卵素麺」と変わらぬ「「フィオス・デ・オヴォシュ・fios de ovos・
卵の糸」という名の菓子が、街の菓子屋の店先に並んでもいる。
かつてポルトガル領であったマカオやメキシコには、同類の菓子が点々と残り、古く、東西の交易拠点であっ
たタイには「フォイ・トーン・foi thong・金の糸」という、「鶏卵素麺」と起源を同じくすると思われる菓子が、
やはり、みられる。
その製法を伝えるものとしては南蛮料理書のほか、刊行本の料理書では国内最古の書だとされる寛永二十年
(一六四三)に発刊された「料理物語」、元禄二年(一六八九)刊 の『合類日用料理抄』、幕末、奥向に仕えた
福岡藩士による食材や調理などの記録「萬菓子作様并香物漬様薬酒造様之事」(福岡県地域史研究所蔵)などに
みられる。
地誌上の記録としては、筑前國續風土記、筑前國續風土記付録、石城志などによって、製造されるに至った由
来や、菓子としての評判などを知ることができる。また、大賀氏家伝には、藩主御成の際に献上された記録があ
る。なお、地誌などでふれられる「鶏卵素麺」については本編に詳細を述べた。
(つづく)
2013年09月19日
津屋崎に居館を持ったという官兵衛 弟・黒田利則
津屋崎に居館を持ったという官兵衛 弟・黒田利則に関する資料箇条書
▶▷ 津屋崎 黒田利則関係資料
※画像は太郎坊社七所宮圖/奥村玉蘭/筑前名所圖繪
●筑前國續風土記附録(加藤一純)
○観音堂 垣の内という所にあり。堂内に長政公尊碑あり、元和九年京都に
おいて涓(手篇)館し給い、霊柩を船に載せ奉り、此浦(津屋崎浦)に着か
せられ一宿し給う所なり。其の跡に観音を安置し、(手篇)の内といふ。其
時四方に垣結廻し警護ありし故なり。
●筑前國續風土記拾遺(青柳種信)
○垣内観音堂 この堂に興雲院殿の神位あり。元和九年京都において涓(手篇)
館し給い、霊柩を載奉りし舩、此浦(津屋崎浦)に泊れり。時に風波強かりし
かは、此地に霊柩を揚げて四方に垣を結て守護し奉り翌日陸地より崇福寺へ送
り奉りけるとかや。依りて此所を今も垣の内といふ。其後観音堂を建て尊牌を
安置せしといふ。修験者護國院これを守る。
●筑前國續風土記拾遺(青柳種信)
津屋崎村同浦
村浦の人家軒を並べて、凡農商工漁の戸数五百余軒、人数二千四百人斗、當郡
第一の廣村なり。
村内に殿屋敷といふ所有。昔黒田養心翁此所にしはらく住居せられし宅址なり。
(今納倉の有邊を云う。)又元禄十四年入海の東畔に石垣を築き、新たに田を
墾開くこと五十九町四反九畝余、塩濱凡三十町六反六畝當村の處分なり。塩濱
は勝浦よりも廣くして諸方より人多く集まり来て、當代は一ツの村落たり。開
作囲石堤長千貳百八拾間余有
●筑前國續風土記附録、及び拾遺
○黒田養心館址並びに墳墓 本編(一三六)に見えたり。
村内シロと言所にあり。其境地凡千五百餘坪有。石壁の址今に残れり。天明年中、
遠孫黒田諸左衛門利郷墳墓を補修し、瓦屋を覆ひ、石階十餘級を築き、石の燈䑓
二基建立せり。
○黒田養心居士の墓は村の西川を隔て高所に在。又館址あり。今もしろといふ石
壁の跡残れり。墓より四町許南なり。
●間島家譜
筑前御入国の後、宗像郡津屋崎に居宅を構へ住居せらる、其後長政公那珂郡市瀬は
国境なれハとて養心公を置き給ひけれは、高館を建られて住せらる、領知一万弐千
石也、所の民は御城と云し勿論市の瀬・道善・梶原・片縄・中村辺迄不残領地、宗
像郡にては上西郷・下西郷・手光・津丸・久末・荒地・津屋崎・渡村辺迄知行所な
りし
●福岡藩仰古秘及(竹冠)六
慶長後庚子年十二月八日名島城請取二被遣衆
御名代
黒田修理
黒田忠兵衛
井上九郎右衛門
母里太兵衛
桐山孫兵衛
母里与三兵衛
三宅三大夫
宮崎助大夫
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福岡市教育委員会/NHK福岡放送局後援
http://www.city.fukuoka.lg.jp/events/evt40083.html
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http://blogs.yahoo.co.jp/county_assembly2/31146610.html
▶▷ 津屋崎 黒田利則関係資料
※画像は太郎坊社七所宮圖/奥村玉蘭/筑前名所圖繪
●筑前國續風土記附録(加藤一純)
○観音堂 垣の内という所にあり。堂内に長政公尊碑あり、元和九年京都に
おいて涓(手篇)館し給い、霊柩を船に載せ奉り、此浦(津屋崎浦)に着か
せられ一宿し給う所なり。其の跡に観音を安置し、(手篇)の内といふ。其
時四方に垣結廻し警護ありし故なり。
●筑前國續風土記拾遺(青柳種信)
○垣内観音堂 この堂に興雲院殿の神位あり。元和九年京都において涓(手篇)
館し給い、霊柩を載奉りし舩、此浦(津屋崎浦)に泊れり。時に風波強かりし
かは、此地に霊柩を揚げて四方に垣を結て守護し奉り翌日陸地より崇福寺へ送
り奉りけるとかや。依りて此所を今も垣の内といふ。其後観音堂を建て尊牌を
安置せしといふ。修験者護國院これを守る。
●筑前國續風土記拾遺(青柳種信)
津屋崎村同浦
村浦の人家軒を並べて、凡農商工漁の戸数五百余軒、人数二千四百人斗、當郡
第一の廣村なり。
村内に殿屋敷といふ所有。昔黒田養心翁此所にしはらく住居せられし宅址なり。
(今納倉の有邊を云う。)又元禄十四年入海の東畔に石垣を築き、新たに田を
墾開くこと五十九町四反九畝余、塩濱凡三十町六反六畝當村の處分なり。塩濱
は勝浦よりも廣くして諸方より人多く集まり来て、當代は一ツの村落たり。開
作囲石堤長千貳百八拾間余有
●筑前國續風土記附録、及び拾遺
○黒田養心館址並びに墳墓 本編(一三六)に見えたり。
村内シロと言所にあり。其境地凡千五百餘坪有。石壁の址今に残れり。天明年中、
遠孫黒田諸左衛門利郷墳墓を補修し、瓦屋を覆ひ、石階十餘級を築き、石の燈䑓
二基建立せり。
○黒田養心居士の墓は村の西川を隔て高所に在。又館址あり。今もしろといふ石
壁の跡残れり。墓より四町許南なり。
●間島家譜
筑前御入国の後、宗像郡津屋崎に居宅を構へ住居せらる、其後長政公那珂郡市瀬は
国境なれハとて養心公を置き給ひけれは、高館を建られて住せらる、領知一万弐千
石也、所の民は御城と云し勿論市の瀬・道善・梶原・片縄・中村辺迄不残領地、宗
像郡にては上西郷・下西郷・手光・津丸・久末・荒地・津屋崎・渡村辺迄知行所な
りし
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慶長後庚子年十二月八日名島城請取二被遣衆
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2013年09月16日
筑紫女学園校長の発見で救われた「黒田家文書」の話し、、、
黒田修理亮利則という官兵衛如水公・次弟のことを調べる中で、福岡市総合図書館に
転写資料として収蔵があった「福岡啓藩志」なる古文書に行き当りました。
当館司書の話しでは、同書は福岡県立図書館収蔵の「黒田家文書」と区別して、
「筑女黒田家文書」としてある一連の文書の内の一書だそうです。
「筑女黒田家文書」は、福岡市にある筑紫女学園二代校長の水月文英氏が上京の折り
に、都内の古書店で偶然見つけ、即決して購入されたことで、今に伝わるのだそうで
す。
水月氏による古書店での発見は、貴重な郷土資料が散逸から免れた瞬間でした。
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2013年09月15日
津屋崎に住んだという、黒田官兵衛次弟・利則の資料について
黒田修理亮利則という官兵衛如水公・次弟が宗像郡津屋崎・現福津市津屋崎に住み、
福岡藩水軍の調練を行っていたということが三浦明彦氏の著作「西日本人物誌・黒
田如水」中に書かれています。
その典拠を探っているのですが、今日、福岡市総合図書館郷土資料室で「増益家臣
伝」という「筑女黒田家文書」と呼ばれる一連の黒田関連の文書のうちの一つの巻
三に「黒田修理亮利則」の項を見つけ、「長政公筑前入府の後宗像郡津屋崎浦に云
々」と確かにあるのを確認しました。
残るは、利則による藩水軍調練の典拠についての確認のみ、となりました。
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2013年06月12日
▶▷官兵衛・長政を祀る光雲社と荒戸山東照宮
※図はかつて東照宮が鎮座し、現在は光雲神社がある西公園下にあった船溜まりへと入る、長崎警備から戻って来た
福岡藩船の様子です。(奥村玉蘭/筑前國名所図絵より)図右上に「荒戸山東照宮図」とあります。
福岡市中央区の西公園・荒戸山山上に鎮座する、黒田官兵衛如水・長政の両公を祭神とする光雲神社は元々東照宮で
した。
明治十四年、地元民の願いにより一帯は整備されて公園となり、同四十二年、孝高・長政両公を祭神とする光雲神社
が東照宮跡地に勧進され、末社として東照宮も建立されました。
昭和二十年、一帯は空襲によって焼失。同二十一年光雲神社は復興されますが、末社・東照宮は再建されず現在に至
っています。
なお同神社の正面に建つ石鳥居は、旧東照宮の鳥居で、昭和四十四年、現在地に移築する際に柱の基底部から、日光
東照宮に奉納した石鳥居の試作品である旨の墨書が発見されています。
【廃絶東照宮の事】
光雲神社は、那の大津・博多湾に面した現在の福岡市中央区西公園・荒戸山丘陵上に座しています。
現在では、周辺の埋め立てが進み印象を異にしますが、古くは博多湾に突き出た標高50米ほどの風光明媚な小丘で
「荒戸山」の他「荒津山」「高照山」、などと呼ばれていました。
江戸時代。この山上には、徳川家康を祀る壮麗な東照宮がありました。
福岡藩二代藩主黒田忠之は、筆頭家老栗山大膳との対立から起こったいわゆる「黒田騒動」の当事者でした。この騒
動によって栗山大膳は盛岡南部藩におあずけの身となりましたが、忠之側に対する幕府からの咎めはなく、藩主とし
ての権力は却って、維持・強化される結果となりました。
その際に、幕府への忠誠を示す意味で忠之は荒戸山に東照宮を建立します。
荒戸山東照宮は、慶安三年(1650)から建設に着手され、承応元年(1652)に完成しました。当時は樹々が鬱蒼と
繁る中に長い坂道に続く石段があり、その奥、見あげるような形で神殿・拝殿・玉垣瑞垣・唐門・神厨・宝蔵など、
尊厳なたたずまいの境内があってと、ものの本にはあります。
東照宮の祭祀を司るため、比叡山から招かれた豪光法師開山の高照山松源院福祥寺も隣り合わせてあり、これもまた
壮麗をきわめていたといいます。
慶安三年には、ご神体である家康の姿を写した「東照大権現座像」が東叡山・寛永寺(江戸上野)で開眼。社殿の完
成に合わせて数人の家臣が江戸までお迎えに発ち、大坂からは海路、新造船「三光丸」で運ばれました。
忠之は博多湾頭で「三光丸」を出迎え、湾内を供奉。五月十七日「東照大権現座像」を神殿に納め御遷宮の儀式が厳
重に執り行なわれます。
その後、毎月十七日には藩主自ら参拝。年ごとの四月十七日の祭礼には、筑前国中の老若男女が挙ってお参りし、隣
国からも多くの参拝者が訪れたといいます。
明治維新を迎えると、旧幕府を崇敬する施設だ、として廃社になり、壮麗を誇った社殿も仏堂も姿を消してしまいま
した。「東照大権現座像」は、中央区天神の警固神社に移されました。福岡市の文化財に指定されています。
2013年06月04日
戊辰戦争での官兵衛の末裔たる福岡藩
福岡藩は慶応元年(1865)に加藤司書公以下、藩内の勤王派を粛正し、藩論を佐幕で統一していました。ところが、政局が急変、薩長を中心とした倒幕勢力が優勢となるなかで、勤王派を弾圧した責任者を処分。改めて勤王倒幕を誓い、その後、展開する戊辰戦争に参加します。
福岡藩の戊辰戦争への出兵人員は陪臣・傭兵・軍夫を合わせて2,370名。3隊に別れて行動します。
一隊は矢野安太夫・郡右馬之充の部隊。慶応4年2月15日に東征大総督有栖川宮熾仁親王に従い京都を進発。東海道を下り江戸に入り上野の彰義隊掃討戦に加わっています。その後、江戸周辺の船橋・行徳・飯能において旧幕府軍掃討戦を展開しました。
大野忠右衛門以下、131人の一隊は、矢野安太夫・郡右馬之充隊より先きに、薩長兵とともに奥羽鎮撫総督九条道隆を頂き、一旦、仙台へと入ります。ところが、奥羽列藩同盟が成ったことから、仙台を脱出。秋田へと移動し、秋田藩兵とともに、庄内藩討伐戦にかかります。ここで、苦戦が続いたため、藩は、飯田孫左衛門を将として、296人を増援します。
最後の一隊は、小川専左衛門、根本源五衛門を隊長とする454人です。同隊は、奥羽列藩同盟の盟主・仙台藩掃討のために江戸で編成され、太平洋岸を北上。相馬中村藩、仙台藩との激戦を展開しました。
明治へと改元された9月から10月にかけて、奥羽列諸藩が降伏し、各地での戦闘は終焉をみます。
翌2年。秋田に駐屯した部隊は黒崎(現・北九州市八幡西区黒崎)まで海路をとり、その後、陸路で帰着。仙台に駐屯していた部隊は、湊町(現・福岡市中央区港町)に上陸し帰着しました。
戊辰戦争で福岡藩が出した戦死者は66名。負傷者は84名でした。
福岡藩の戊辰戦争への出兵人員は陪臣・傭兵・軍夫を合わせて2,370名。3隊に別れて行動します。
一隊は矢野安太夫・郡右馬之充の部隊。慶応4年2月15日に東征大総督有栖川宮熾仁親王に従い京都を進発。東海道を下り江戸に入り上野の彰義隊掃討戦に加わっています。その後、江戸周辺の船橋・行徳・飯能において旧幕府軍掃討戦を展開しました。
大野忠右衛門以下、131人の一隊は、矢野安太夫・郡右馬之充隊より先きに、薩長兵とともに奥羽鎮撫総督九条道隆を頂き、一旦、仙台へと入ります。ところが、奥羽列藩同盟が成ったことから、仙台を脱出。秋田へと移動し、秋田藩兵とともに、庄内藩討伐戦にかかります。ここで、苦戦が続いたため、藩は、飯田孫左衛門を将として、296人を増援します。
最後の一隊は、小川専左衛門、根本源五衛門を隊長とする454人です。同隊は、奥羽列藩同盟の盟主・仙台藩掃討のために江戸で編成され、太平洋岸を北上。相馬中村藩、仙台藩との激戦を展開しました。
明治へと改元された9月から10月にかけて、奥羽列諸藩が降伏し、各地での戦闘は終焉をみます。
翌2年。秋田に駐屯した部隊は黒崎(現・北九州市八幡西区黒崎)まで海路をとり、その後、陸路で帰着。仙台に駐屯していた部隊は、湊町(現・福岡市中央区港町)に上陸し帰着しました。
戊辰戦争で福岡藩が出した戦死者は66名。負傷者は84名でした。