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Frco.Don
Frco.Don
競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2014年07月16日

アップルの「iWatch」はiPhoneやiPadのライバルに モルガン・スタンレー予測

☆FacebookやSNS上でのイラッとする投稿や不思議な言動とは?~男性編~
http://news.ameba.jp/20140715-154/
★東芝が在宅医療や介護サービス向けSNSを提供、スマホにつぶやき患者情報共有
http://techon.jp/article/EVENT/20140715/365357/?n_cid=nbptec_r_NMC
☆アップルの「iWatch」はiPhoneやiPadのライバルに モルガン・スタンレー予測
http://jp.ibtimes.com/articles/59314/20140715/223863.htm
★GoogleやFacebookなど米企業団体、ネット中立性の改定案に意見書
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/news/14/071500045/
☆有岡城とも荒木村重とも関係がない黒田官兵衛の藤巴紋
http://youtu.be/hWXPOa-4KME
☆黒田官兵衛でなかった高松城水攻案、考えたのは誰!?
http://youtu.be/du5X8dcmjh0




  


Posted by Frco.Don at 22:24Comments(0)今日のプレスリリース

2014年07月15日

官兵衛の土牢生活とは関係がなかった、しかも裏紋の黒田藤巴

「異説.黒田官兵衛」二作目は、黒田の紋「藤巴」は官兵衛の有岡城土牢生活とは関係がなかった。
そしての藤巴紋は替紋とされ、表立っては使用されていなかったという話しです。




史実とは違う黒田官兵衛の通説に、史実に裏付けられた「異説」をご紹介。黒田の紋といえば、藤巴。
官兵衛が捕らえられた土牢生活の中、藤の花に勇気づけられたことから、家紋にしたといおのは俗説
で、ほんとうのワケは別にあります。また、藤巴紋は、黒田家の替紋で表紋は別の紋でした。「異説」に
ご意見・ご苦言・さらなる異説をコメントで頂ければ幸せです。







  


Posted by Frco.Don at 19:38Comments(0)シメオン官兵衛孝高

2014年07月15日

官兵衛ではなかった高松城水攻案


異説・黒田官兵衛伝 その一  高松城水攻の発案者は誰?
高松城水攻の発案、実は、官兵衛の発案ではありませんでした。



官兵衛について伝わる通説にかわる、「異論」をご紹介。
「異論」への異論・苦言・新説がございましたら、コメントください、ませ。


  


Posted by Frco.Don at 10:33Comments(0)シメオン官兵衛孝高

2014年07月07日

高松城水攻めは官兵衛じゃなくて秀吉の思い付きだった

【軍師・黒田官兵衛百物語46話】
本当の高松城水攻めは官兵衛じゃなくて秀吉の思い付きだった


軍師・黒田官兵衛百物語

佐柿弥右衛門常円という、羽柴秀吉の近くに、日頃、控えていた家臣がおりました。
具体的な役職は不明です。秀吉が馬場で馬慣らしを行う時などは側にいた、などと、
本人の回顧談が伝わっています。

常円は江戸時代に入ると、池田家岡山藩領に住み、百歳の長寿を全うしたそうです。

その常円からの聞き語りを、岡山藩士の村瀬安兵衛がまとめた「備前国人佐柿常円
入道物語」という書があり、なかに、備中高松城水攻めの際の堰堤建設についての報
告があります。

当時従軍した証言者は語る

備中平野を、北から南に流れ下ってくる足守川を、東西の位置で挟む丘陵の あいだ
に堰堤をつなぎ、高松城を湖水に浮かべてしまうという作業は、高台から高松城を見
下ろしていた秀吉が「誰でもよい、ついて参れ」と発した一言から始まったと常円は語
っています。秀吉の急な思いつきの言葉に、その時、従ったのは7、8騎。なかに常円
がいたのです。

高松城の水攻めについてふれる書は、「備中高松記」「清水長左衛門尉平清水宗治
由来覚書」などの他にも、多々、ありますが「備前国人佐柿常円入道物語」にみる堰
堤建設の物語は、当事者の証言だということです。

さて、秀吉は、7、8騎をひきつれ高台を駆け下ると、細竹を用意させ、足守川の河原
を中心に、高松城を挟む丘陵との間に点々と立てさせ、今から築く堰堤の目印とした
のです。

先週の大河ドラマでは岡田官兵衛が、軍議の場に高松城周辺の模型を持ち出し、
水攻めの策を説明する場面がありました。高松城水攻めの策は官兵衛の発案だと
いうわけです。

史実は秀吉によるものなのです!

小和田哲男著「黒田如水」では、この築堤工事について官兵衛の献策と従来されて
きたが、そのことを証明する史料は見つからない。姫路育ちの官兵衛よりも、木曽川を
見て育った秀吉、蜂須賀小六らによる本能的な直感から生まれた策だろうと、まとめら
れています。







  


Posted by Frco.Don at 13:06Comments(0)シメオン官兵衛孝高

2014年07月03日

案外深い官兵衛と宇喜多直家の関係

【軍師・黒田官兵衛百物語43話】
宇喜多直家を裏切らせたのは官兵衛の策略?それとも血?


軍師・黒田官兵衛百物語

天正五年(1577)の11月に、羽柴秀吉が織田信長の命を受け、初めて播磨に兵を入れ、
毛利軍との間で備前との堺にある佐用城と上月城を廻って争奪戦を展開した時に、備前
の国主であった宇喜多直家は、毛利方に味方すると言いじょう、病と称して弟の忠家を出
陣させました。

宇喜多直家という人は、謀略・暗殺・裏切りのくり返しで大名にのしあがった人です。
この時の直家の行動は、秀吉軍中から発せられる官兵衛による調略の手に、直家が乗りか
かっているのではないかとの心配を毛利方にさせました。

結局、天正七年(157 9)には、毛利と手を切り、織田方への寝返りを直家は決めます。そし
て、2年後には子の秀家のことを秀吉に頼んで他界します。秀吉は秀家を猶子とし、その後、
宇喜多家は羽柴一門として歴戦を重ねることになります。

宇喜多の重臣に官兵衛の親戚がいた

その宇喜多家を支えた重臣に、直家の娘、つまり秀家の姉妹を娶った明石掃部全登という侍
がいたのですが、この人は官兵衛とは従兄弟の子という関係でした。

官兵衛の母は、城持ちであり、近衛家の歌道の師範でもあった明石正風の娘だったということ
は、前にふれました。官兵衛の祖父ということですが、掃部から見ると正風は曾祖父でした。

直家の織田方への寝返りを誘うのに官兵衛が成功したのには、そうした密やかな氏族間を通
してのつながりも、影響があったと考えられます。

もう一点、宇喜多直家と官兵衛の接点を挙げると、直家の父・興家と官兵衛の曾祖父・高政の
墓が、いずれも備前福岡の妙興寺に並んであるということです。

宇喜多直家と官兵衛の関わりは、二世代ほどさかなぼることができるのかもしれません。






































  


Posted by Frco.Don at 09:05Comments(0)シメオン官兵衛孝高