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競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2024年11月30日

藤原隆家と香椎宮綾杉と刀伊襲来、そして狂気筆豆・藤原実資の「小右記」

藤原隆家と香椎宮綾杉と刀伊襲来、そして狂気筆豆・藤原実資の「小右記」
香椎宮・香椎潟「御島礼祭」©︎S.Kiyota

【香椎宮綾杉の挿頭(かんざし)と隆家】
藤原隆家は、長和三年1014〜寛仁三年1020、長暦元年1037〜長久三年1042の二度、大宰権帥(事実上の政務・軍務の大宰府長官)として筑前へ下向。下向官人は香椎宮へ参拝、神木綾杉を挿頭(かんざし)としてかざす神事が執りおこなわれます。300年遡る神亀五年728、大伴旅人も、また、大宰帥任官、下向に際して香椎宮に参拝。「香椎の廟(香椎宮、古代、香椎宮は香椎廟と称された)を拝みまつることを訖りて」と、香椎宮への足跡を万葉集(同巻六957)につたえます

隆家が権帥任官で、二度、綾杉の挿頭をうけたと、香椎宮司・大膳武忠は歌に詠み 金葉和歌集に所収します、、、

隆家卿大宰帥に二たひなりて後のたひ、香椎御社にまいりたりけるに、神主こと
のもとゝて、杉のはをおりて、帥かうふりにさすとて、よめる。 神主 大膳武忠

ちはやふる かしゐの宮の 杉の葉を 二たひかさす わが君そきみ 
(神々しい香椎宮の杉挿頭を二度にわたり、わが君へお差しもうしあげた、なんと晴れがましいことか、、、)

『金葉和歌集』

藤原隆家と香椎宮綾杉と刀伊襲来、そして狂気筆豆・藤原実資の「小右記」
香椎宮・御神木「綾杉」©︎S.Kiyota

【刀伊襲来を報告する隆家、狂気筆豆・実資】
寛仁三年1019.3月末、見なれない兵船五十余が対馬にあらわれ、殺人・放火をほしいままにする。対馬守遠晴による3月18日付報告が、4月7日大宰府に到着。壱岐からも僧常覚が、同日、大宰府に至り、壱岐守藤原理忠以下、島司、島民がみな殺されたと報告。兵船は早くも筑前の海岸に出現、博多西方の恰土・志摩・早良三郡を襲う

九州の軍事・政務の総覧・隆家は、飛駅使を発遣、賊の襲来を朝廷に報告。藤原実資は隆家からの報告を、その日記「小右記」に大幅な紙数をさき記録する

捕虜として捕らえた、賊軍にまぎれていた高麗人の証言から、賊は高麗東方の女真族だとわかる。
高麗からみて東方の夷狄と、捕虜が発語した音「トウ(東)イ(夷)」に「刀」・「伊」と字があてられ、その後、女真族を「刀伊」と、呼ぶ。高麗東方で共存関係にあった渤海国が滅び、女真族は遊民化。朝鮮半島東岸、日本海の島々、そして北部九州一帯を襲うのです

被害は、対馬、死者36名、さらわれた者346名。壱岐、死者149名、さらわれた者239。生存者35名

4月 8日、賊、つまり女真族たる刀伊軍は博多湾に侵入、能古島に布陣。翌9日、現福岡城・鴻臚館跡にあった警固所に攻撃をしかける。隆家は平到行・大蔵種材・藤原致孝・平為賢・平為忠らを召集、撃退。平安時代後期、白河院政期成立の歴史物語『大鏡』は、この間の隆家について「弓矢の基と末も知りたまは」ぬ摂関家の出だが「やまと心かしこくおはする人にて」直ちに九州の諸勢力を糾合できたと賞賛。

藤原隆家と香椎宮綾杉と刀伊襲来、そして狂気筆豆・藤原実資の「小右記」
鴻臚館復元図(福岡市博物館)

刀伊軍は能古島に退く。 10日・11日と追い、12日には志摩郡住人文室忠光の活躍もあり、同郡船越津で大打撃をあたえる

更に、刀伊軍は西へ。13日、肥前国松浦郡を襲うが、前肥前介・源知が応撃。ついには撃退に成功します

「小右記」と筑前宗像郡」
刀伊による北部九州侵犯は、朝廷あげての一大事であると同時に、実資には自領が直接災難にあう事件でした。北部九州の一角、筑前宗像郡が実資の私領としてありました。「小右記」は、刀伊についての記述をはじめ、国家的な記録が詳細、膨大に収められていますが、私領・宗像郡とのやりとりも、多々、みられます。隆家は目を病んでいましたが、その目薬を宗像郡を通じて探してやったこと、あげられて来る貢納品のリストなどなど。宗像郡には良馬を産出することで知られた高田の牧がありました。同牧から貢納品として運搬していた馬数頭が、京近くで良馬専門の盗賊に襲われた(同長元元年九月八日条)という興味深い記録もつたわるなど、、、

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/21717/p105-145.pdf
「宗像大宮司と日宋貿易 : 筑前国宗像唐坊・小呂島・ 高田牧」
九州大学大学院比較社会文化研究院教授・服部英雄

狂気的筆豆、実資。おかげで、隆家のこと、刀伊、筑前宗像郡のこと。宮中の祭祀、政務などなど。膨大な情報を、わたしたちは知ることになります

藤原隆家と香椎宮綾杉と刀伊襲来、そして狂気筆豆・藤原実資の「小右記」
宗像郡の野©︎S.Kiyota

【『大鏡』中の隆家像】
総司令を勤め、刀伊軍を見事に撃滅する隆家。肥後菊池家は隆家を、その祖としています。隆家庶子が菊池一族を形成したといいます。西国の勇武の家、菊池一族が祖と後世自称、崇める隆家。その同時代の評判を、『大鏡』いくつか書き留めます

「才略のある人」
花山法皇襲撃事件に連座。出雲権守左遷が決定。病などを理由に但馬国にとどまり赦免をまつと、兵部卿、正二位前中納言と政界復帰の道を歩む。このときの隆家を、「才略のある人」と世間はウワサしたといいます

「隆家ゆえの道長」
賀茂詣の行列の遥か後ろをくる、隆家をみつけた道長は自分の牛車へ同乗させます。車中、さまざまな話になりますが、隆家配流の一件に、自分は関わらなかったと道長は弁明します

「配流のことは、私が差配したように世間ではウワサする。しかし、わたしは宣旨(天皇の命令)に従ったまでだ。不本意でも宣旨に従うほかなかった。そうでなければ、今日こうして、賀茂詣にともに車中で話をする機会もなかったであろう」と。道長の弁明を『大鏡』は、隆家だからこそのことだと評します

「道長に帯を解かせる」
ある日、道長は自邸での酒席に隆家がいないのは寂しいと呼びにやります。その頃、隆家は、人とのつき合いをさけて暮らしていました

酒がすすみ、酔い、皆、衣の紐を解き、くつろぐところに隆家があらわれ、居住まいをただして席につく。道長が苦しくない、隆家も帯を解け、くつろげと声をかける。すると従二位の藤原公信が、それがしが解いてあげませうと正二位の隆家の帯にふれようとします。すると「この隆家、不運でこそあれ、貴公に馬鹿な真似をされるような身ではない」と怒ってしまう。帯にふれるとは、当時、魂にふれるという呪の意味合いをもつこともありました

これに道長は笑いつつ「今日はそのような冗談はやめるのだ。この道長が帯を解こう」と、隆家に寄りそう。隆家は「これこそ、あるべき姿」と機嫌を直し、酒盃を重ねます。道長は、そのような隆家を喜んでいたといいます感情で動く人である隆家を描く一方、そんな隆家を道長が愛していたことを伝える逸話です

「天皇を人非人と、、、」
隆家は姪・定子と一条天皇の皇子、敦康親王の立太子、皇太子に立てられるよう期待しました。
一条天皇が重態な状態に陥ると、御前に参上、その意向を伺います。しかし、天皇は、敦康親王の立太子を拒みます。有力な後見人がいないということでした

結局、道長外孫・敦成親王(のちの後一条天皇。母は道長の娘・彰子)が立太子。隆家は、敦康親王立太子を拒む病床の一条天皇を「人非人」と罵ったと『大鏡』は述べます

「敦康親王が即位して、隆家が政治を補佐したなら、天下はよく治まるだろう」と、の、ささやきが世間にはあったとも『大鏡』は語るのです


一度目の大宰下向で英雄とされた隆家。しかし、その後、昇進の機会を与えられることはありませんでした。後朱雀天皇の長暦元年1037、再び太宰権帥に任ぜられ、長久三年1042まで務めます。同五年1044一月一日、静かに世を去りました、、、



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