2016年12月31日
原崎閣下、おおつごもりのご挨拶

平成28年師走大晦日 皆さまお早うございます
さて、ここ福津市という池の底には、有象無象の怪魚が潜んでいる、と二期と勤めて思います。
福津を土俵に寄り切りたい。そんな思いで年の暮を迎えています。
明日からの新年いかがなものなのだろう。
あらたまの年が、みなさまに、幸を多くもって来てくれることを祈念いたしております。佳いお年をお迎えください。
We ❤ 福津 ❗ 原崎ともひと
『H29.2市長選挙・福津未来会議』
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2016年12月29日
福津市長選.小山達夫現職と原崎智仁市議で一騎打ち

【新春2月5日投開票/福津市長選挙】
〜 小山達夫現職(69)と原崎智仁市議(46)で一騎打ち 〜
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2016年12月27日
福津勝浦浜海岸・三女神様の浜のヨットマン

福津勝浦浜海岸・三女神様の浜では、ちびっこがOP
(ミニヨット)でスポーツしていたりする。
ふくつの時間 勝浦浜海岸
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2016年12月25日
宮地嶽神社と宗像三女神のタキリヒメ神

★タキリヒメ神・大国主命・アヂスキタカヒコネ神さま、と、尼子娘・天武天皇・高市皇子さま
『古事記』中に、妹シタテルヒメ神さまの夫神で、高天原への復命をおこたり死んだアメノワカヒコ神さま
の葬儀にアヂスキタカヒコネ神さまが訪れる話があります。
アヂスキタカヒコネ神さまはアメノワカヒコ神さまとそっくりで、アメノワカヒコ神さまの父神・アマツク
ニタマ神さまがアメノワカヒコ神さまが生きかえったと喜び抱きつきました。
アヂスキタカヒコネ神さまは穢わしい死人と一緒されたことを怒り、剣を抜きアメノワカヒコ神さまの喪屋
を切り倒し、蹴り飛ばしてしまいます。
そこで妹のシタテルヒメ神さまが「天なるや 弟棚機の 頂がせる 玉の御統の 穴玉はや 御谷 二渡らす 阿遅鉏
高日子根」と、歌をよせ兄神さまの身命を明かします。
どう解釈をすればよいのか不思議な話です。
タキリヒメ神さま、大国主命さま、アヂスキタカヒコネ神さまの関係は、宮地嶽古墳の被葬者とされる宗像君
徳善の娘・尼子娘さま、天武天皇さま。そしてお二人の皇子高市皇子さまと対照しています。
画像/名嘉睦稔
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2016年12月23日
福津市許斐山から三女神の野、方面眺望

許斐山頂「王子社」さま
ご祭神は、三女神さまの親神・須佐之男命さま。宗像社さま唯一の直祭境外摂社さまとのこと。
麓の的原社には、澳津宮・多紀理比売命さまの御子神・味耜高彦根命さまが鎮座。興味深い。
占部氏居城・許斐山跡としては、堀切跡・水の手(金魚池)など確認でき、中世山城跡を知るの
に良い教材。
中腹には大友の将・麻生鎮氏(重氏と案内板にあるが間違いらしい)墓もあった。
★ふくつの時間HP 許斐山
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2016年12月16日
2016年12月15日
官兵衛、安国寺恵瓊を叱るの書状

本能寺の変、翌年の天正十一年。備中高松城戦後の講和交渉で、
毛利氏側が明確な態度を示さないために、関係の農村から毛利、
羽柴の両者に年貢を半納したいと云う申し出があった事につい
て、毛利の交渉官・安国寺恵瓊に対して、毛利側の不手際から
の事だ、と黒田孝高と蜂須賀正勝が叱責し善処をもとめる連書状。
2016年12月09日
昭和に野尻氏が奪還「清田城」大分・小岳山上の城郭の話
★昭和に入り、野尻氏に奪還された、中世までは「清田城」だった大分・小岳山上の城郭の話
豊後竹田から大分市内へと入る戸次川流域に小岳山があります。この山は中世城郭跡でもありまして、
古くは野尻氏の居城でした。
頼朝鎌倉開府後に大友氏が豊後に下って来ると、地生えの野尻氏を追い、戸次氏が入り清田を名乗ります。
その小岳山には、現在、近世城郭を真似た天守が建ちます。もう鬼籍に入られましたが、元大分県議の
野尻さんが建てられた疑似城郭です。
四半世紀前。清田の故地と云う事で小岳山を初めて訪ねた時に、なにゆえ、中世城郭跡に、近世城郭の
天守とおぼしきものが建つのか、不思議さにひかれて登ってみると、野尻さんのご自宅でした。野尻さん
は、「ま、上がれ」と、初対面のわたくしと前の奥様と、ふたりを気さくに声をかけ、天守一階の居間に
通してくださり、お茶とお菓子を振る舞ってくださいました。
そして仰るのです。
「清田姓のヤツが、よく訪ねて来る、よ。で、ボクが奪還した話をしてやるのさ」、と。
野尻さんの表情は、たまらない楽しさにつつまれておりました。
★城址案内板・元大分県会議員野尻哲氏建立 より
源頼朝の時代、緒方三郎惟栄の次男野尻次郎石見守惟村が小竹を開き、700年前鶴ヶ城主戸次重秀 の
長子清田太郎直持が小岳城主となり、最後は400年前野尻紀伊守惟村が城主となるが、天正14年
乙津川で戦死し、小岳城は焼かれた。

豊後竹田から大分市内へと入る戸次川流域に小岳山があります。この山は中世城郭跡でもありまして、
古くは野尻氏の居城でした。
頼朝鎌倉開府後に大友氏が豊後に下って来ると、地生えの野尻氏を追い、戸次氏が入り清田を名乗ります。
その小岳山には、現在、近世城郭を真似た天守が建ちます。もう鬼籍に入られましたが、元大分県議の
野尻さんが建てられた疑似城郭です。
四半世紀前。清田の故地と云う事で小岳山を初めて訪ねた時に、なにゆえ、中世城郭跡に、近世城郭の
天守とおぼしきものが建つのか、不思議さにひかれて登ってみると、野尻さんのご自宅でした。野尻さん
は、「ま、上がれ」と、初対面のわたくしと前の奥様と、ふたりを気さくに声をかけ、天守一階の居間に
通してくださり、お茶とお菓子を振る舞ってくださいました。
そして仰るのです。
「清田姓のヤツが、よく訪ねて来る、よ。で、ボクが奪還した話をしてやるのさ」、と。
野尻さんの表情は、たまらない楽しさにつつまれておりました。
★城址案内板・元大分県会議員野尻哲氏建立 より
源頼朝の時代、緒方三郎惟栄の次男野尻次郎石見守惟村が小竹を開き、700年前鶴ヶ城主戸次重秀 の
長子清田太郎直持が小岳城主となり、最後は400年前野尻紀伊守惟村が城主となるが、天正14年
乙津川で戦死し、小岳城は焼かれた。
