2015年02月25日
官兵衛室・ご実家の話
【櫛橋氏】 引用「武家家伝」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kusihasi.html
定紋・三つ巴
藤原氏/武蔵七党児玉党後裔?
姓氏苗字事典「櫛橋」項より。
櫛橋氏は『印南郡誌』に、「赤松則景の子、八郎有景を祖とす」とみえるが、
赤松則景は宇野則景の誤りであり、八郎有景は佐用郡櫛田に住した櫛田氏の
祖である。ちなみに、『赤松家風条々事』や『姓氏家系大辞典』なども八郎
有景の後裔説をとっているが、こちらも誤りであることはいうまでもない。
加えて、櫛橋という地名は、赤松氏発祥の地である佐用郡内はもとより、播
磨国には見当たらないのである。
一方、『志方町誌』に記載された「櫛橋氏略系図」がある。それによると、
櫛橋氏は藤原鎌足に始まり、藤原北家の摂関家→世尊寺家→櫛橋氏とつなが
っている(下記参考系図参照)。すなわち、摂政・太政大臣藤原師輔に始ま
り、孫行成から伊経までは世尊寺流書家の公卿であり、伊経は鎌倉時代前期
の嘉禄三年(安貞元年=1227)に没している。そして、伊経の子が櫛橋氏の
祖という伊朝となっている。
伊朝は「櫛橋家は藤原氏で伊朝を元祖とし、代々赤松氏の家臣であった。伊
朝も国難に赴いて戦死したが...」と、元弘の変(1331)以後、南北朝時代は
じめの人物として登場する。伊経と伊朝の間には一世紀余の断絶がみられ、
こちらも信憑性に乏しいといわざるを得ない。
櫛橋氏の系譜に関する史料としては、建仁寺・南禅寺の住持を歴任した禅僧
天隠龍沢の『翠竹真如集』に見える「櫛橋字渓居士賛」「櫛橋万善居士寿像
賛并序」がある。そして、後者には初代とされる伊朝から、万善居士則伊ま
での系譜が記されている。しかし、伊朝以前の櫛橋氏に関する記述はない。
画像/伴大納言絵巻

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kusihasi.html
定紋・三つ巴
藤原氏/武蔵七党児玉党後裔?
姓氏苗字事典「櫛橋」項より。
櫛橋氏は『印南郡誌』に、「赤松則景の子、八郎有景を祖とす」とみえるが、
赤松則景は宇野則景の誤りであり、八郎有景は佐用郡櫛田に住した櫛田氏の
祖である。ちなみに、『赤松家風条々事』や『姓氏家系大辞典』なども八郎
有景の後裔説をとっているが、こちらも誤りであることはいうまでもない。
加えて、櫛橋という地名は、赤松氏発祥の地である佐用郡内はもとより、播
磨国には見当たらないのである。
一方、『志方町誌』に記載された「櫛橋氏略系図」がある。それによると、
櫛橋氏は藤原鎌足に始まり、藤原北家の摂関家→世尊寺家→櫛橋氏とつなが
っている(下記参考系図参照)。すなわち、摂政・太政大臣藤原師輔に始ま
り、孫行成から伊経までは世尊寺流書家の公卿であり、伊経は鎌倉時代前期
の嘉禄三年(安貞元年=1227)に没している。そして、伊経の子が櫛橋氏の
祖という伊朝となっている。
伊朝は「櫛橋家は藤原氏で伊朝を元祖とし、代々赤松氏の家臣であった。伊
朝も国難に赴いて戦死したが...」と、元弘の変(1331)以後、南北朝時代は
じめの人物として登場する。伊経と伊朝の間には一世紀余の断絶がみられ、
こちらも信憑性に乏しいといわざるを得ない。
櫛橋氏の系譜に関する史料としては、建仁寺・南禅寺の住持を歴任した禅僧
天隠龍沢の『翠竹真如集』に見える「櫛橋字渓居士賛」「櫛橋万善居士寿像
賛并序」がある。そして、後者には初代とされる伊朝から、万善居士則伊ま
での系譜が記されている。しかし、伊朝以前の櫛橋氏に関する記述はない。
画像/伴大納言絵巻

2015年02月22日
2015年02月21日
近世大名によるさいごの築城・豊前千束旭城
【近世大名によるさいごの築城・豊前千束旭城】
第二次長州征討戦各藩出征となった慶応二年(1866)の年始に薩長同盟の密約が成立、
七月には将軍家茂が死去する。長州藩諸隊・藩兵は関門海峡を挟んでにらみ相う、譜代小
笠原小倉藩に対して攻勢に転じる。
友軍の福岡・肥後細川・鍋島など友軍の諸藩が引き上げるなか、小倉藩は単独・自力によ
る対抗は無理と判断、小倉城を自焼し藩機能ごと南の田川郡へと転退する。その後、支藩
千束領内に近世大名による最後の築城となる旭城を建設する。

新・京築風土記「旭城跡」朝日新聞
http://www.asahi.com/area/fukuoka/articles/MTW20140221410860001.html
【Susumuチャンネル】
第二次長州征討戦各藩出征となった慶応二年(1866)の年始に薩長同盟の密約が成立、
七月には将軍家茂が死去する。長州藩諸隊・藩兵は関門海峡を挟んでにらみ相う、譜代小
笠原小倉藩に対して攻勢に転じる。
友軍の福岡・肥後細川・鍋島など友軍の諸藩が引き上げるなか、小倉藩は単独・自力によ
る対抗は無理と判断、小倉城を自焼し藩機能ごと南の田川郡へと転退する。その後、支藩
千束領内に近世大名による最後の築城となる旭城を建設する。

新・京築風土記「旭城跡」朝日新聞
http://www.asahi.com/area/fukuoka/articles/MTW20140221410860001.html
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