2024年02月28日
宗像三女神、織縫神としての文献資料、民俗・考古資料
・文献資料
★三女神親神・須佐之男神による「忌機屋(聖なる機織り屋)」への悪戯についての神話(古事記・高天原誓約の段)
★大国主神と宗像三神の一、タギリヒメ神の子、ソトオリヒメ神が兄のアジスキタカヒコネ神を唱う歌唱に「機織り」が出て来る(古事記・天孫降臨の段)
★宗像社境内末社、縫殿神社の祭神・兄媛渡来説話(日本書紀 応神四十一年)
・民俗・考古資料
★宗像沖ノ島祭祀を継承したものがあるとされる伊勢神宮祭祀に、「神御衣祭」(かんみそ祭・毎年、四月・十月に新たに織った絹と朝の布帛を奉る)が伝わる。
★沖ノ島黄金谷出土「金銅機織雛形」
★宗像氏族墳墓・新原奴山古墳群在の奴山集落への縫殿神社鎮座
★同縫殿神社は元、新原奴山古墳群中の22号墳上に在った。
★新原奴山古墳群近接の弥生時代住居跡から紡錘車など織縫関連の遺物の出土
★宗像社境外末社に幟を織ることで戦勝を導いた説話を創建縁起にもつ織幡神社がある
※画像/伊勢神宮・神御衣祭 御料 (神宮HPより)

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〜 光の君へ 〜次回予告Movie
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〒811-0322 福岡市東区大岳3-21-1-301
090-2512-4299・清田
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★三女神親神・須佐之男神による「忌機屋(聖なる機織り屋)」への悪戯についての神話(古事記・高天原誓約の段)
★大国主神と宗像三神の一、タギリヒメ神の子、ソトオリヒメ神が兄のアジスキタカヒコネ神を唱う歌唱に「機織り」が出て来る(古事記・天孫降臨の段)
★宗像社境内末社、縫殿神社の祭神・兄媛渡来説話(日本書紀 応神四十一年)
・民俗・考古資料
★宗像沖ノ島祭祀を継承したものがあるとされる伊勢神宮祭祀に、「神御衣祭」(かんみそ祭・毎年、四月・十月に新たに織った絹と朝の布帛を奉る)が伝わる。
★沖ノ島黄金谷出土「金銅機織雛形」
★宗像氏族墳墓・新原奴山古墳群在の奴山集落への縫殿神社鎮座
★同縫殿神社は元、新原奴山古墳群中の22号墳上に在った。
★新原奴山古墳群近接の弥生時代住居跡から紡錘車など織縫関連の遺物の出土
★宗像社境外末社に幟を織ることで戦勝を導いた説話を創建縁起にもつ織幡神社がある
※画像/伊勢神宮・神御衣祭 御料 (神宮HPより)

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2024年02月25日
道長、倫子婿入り問題/仇を前に琵琶、、、
〜 光る君へ 第8回「 招かれざる者」〜
さて、道長、倫子婿入り問題です。
何回前でした、すでに触れましたが、今回描かれているように、道長姉・東三条院詮子、そして倫子の母・繆子がふたりを結ぶことに積極的で、倫子父・源雅信は反対であったという構図は、道長、倫子婿入り問題についての古くからの物語です
ただし、その発端は、花山天皇側近、権中納言に昇進した藤原義懐の専横を牽制する目的で、左大臣・源雅信との連携を強くするべく、ひいては雅信にその娘倫子への道長の婿入りを求めた段田兼家だという設定では話が、ちと、違うのです
『栄花物語』によると、、
兼家は、道長が未だ三位中将であることから「位などまだいと浅きが、かたはらいたき事」と、左大臣家の倫子の婿に道長を出すことに躊躇があったようで
一方、雅信は道長のことを「口わき黄ばみたる主」つまり、クチバシ黄色い未熟者だと。「あなもの狂をし」、ばかばかしとまで言っています。雅信は人として道長を嫌ったようです、、
一方、雅信奥様の繆子は、道長は買い!、だと「この君、ただならず見ゆる君なり」・「われに任せたまへれかし」と、ふたりの結婚を「ただ急がせ給う」たそう。それで止むなく雅信も了解したのだといいます
道長姉・東三条院詮子は、倫子とのあいだだけではなく、第二夫人・源明子との縁もたぐりよせます
倫子は宇多天皇曽孫、明子は醍醐天皇孫。道長と詮子姉弟は、一族ごとを天皇外戚に高めたのです、、、
で、ふたりの馴れ初めについては「この三位殿、この姫君をいかでと心深う思ひきこえ給ひて」とあり。道長が倫子を見染めたという、第八夜、今回の「光る君へ」とは逆の恋の形を伝えます、、、
まひろ式部と柄本道長の恋の行方を「光る君へ」は通奏低音として奏でます。道長が倫子へ首ったけでは物語が破綻しますから、ね、、
はて、
柄本道長には、本人の意思とは別に婚礼の話が進むなか、まひろ式部は、仇を前に琵琶をかき鳴らすのです。それでなくても重い音をだす琵琶。道兼 を前にまひろ式部が奏でる音は、重さに闇、そして悲しみの溝をくわえたものでした、、、、、
次回は、遠い国へ、、、。
まひろと岸谷為時には、海が見える国、遠くの国への旅が待つのですが、、、

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さて、道長、倫子婿入り問題です。
何回前でした、すでに触れましたが、今回描かれているように、道長姉・東三条院詮子、そして倫子の母・繆子がふたりを結ぶことに積極的で、倫子父・源雅信は反対であったという構図は、道長、倫子婿入り問題についての古くからの物語です
ただし、その発端は、花山天皇側近、権中納言に昇進した藤原義懐の専横を牽制する目的で、左大臣・源雅信との連携を強くするべく、ひいては雅信にその娘倫子への道長の婿入りを求めた段田兼家だという設定では話が、ちと、違うのです
『栄花物語』によると、、
兼家は、道長が未だ三位中将であることから「位などまだいと浅きが、かたはらいたき事」と、左大臣家の倫子の婿に道長を出すことに躊躇があったようで
一方、雅信は道長のことを「口わき黄ばみたる主」つまり、クチバシ黄色い未熟者だと。「あなもの狂をし」、ばかばかしとまで言っています。雅信は人として道長を嫌ったようです、、
一方、雅信奥様の繆子は、道長は買い!、だと「この君、ただならず見ゆる君なり」・「われに任せたまへれかし」と、ふたりの結婚を「ただ急がせ給う」たそう。それで止むなく雅信も了解したのだといいます
道長姉・東三条院詮子は、倫子とのあいだだけではなく、第二夫人・源明子との縁もたぐりよせます
倫子は宇多天皇曽孫、明子は醍醐天皇孫。道長と詮子姉弟は、一族ごとを天皇外戚に高めたのです、、、
で、ふたりの馴れ初めについては「この三位殿、この姫君をいかでと心深う思ひきこえ給ひて」とあり。道長が倫子を見染めたという、第八夜、今回の「光る君へ」とは逆の恋の形を伝えます、、、
まひろ式部と柄本道長の恋の行方を「光る君へ」は通奏低音として奏でます。道長が倫子へ首ったけでは物語が破綻しますから、ね、、
はて、
柄本道長には、本人の意思とは別に婚礼の話が進むなか、まひろ式部は、仇を前に琵琶をかき鳴らすのです。それでなくても重い音をだす琵琶。道兼 を前にまひろ式部が奏でる音は、重さに闇、そして悲しみの溝をくわえたものでした、、、、、
次回は、遠い国へ、、、。
まひろと岸谷為時には、海が見える国、遠くの国への旅が待つのですが、、、

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2024年02月23日
職隆墓石と重隆・明石女墓誌と孝高、重隆子・職隆養子説
播磨御着城址(兵庫県姫路市御着)には、孝高祖父・黒田重隆と父職隆室明石氏女の墓塔が建つ。寛政五年1793、現在の兵庫県姫路市御着の御着小寺後裔という、天川久兵衛屋敷内からふたりの墓誌が発見された。かつての黒田主君小寺の居城の近く「筑前様御部屋跡」といわれていた場所。福岡藩は山口武乕を派遣し整備させた
十年前の天明三年1783秋には姫路城東南の妻鹿(めが)村(兵庫県姫路市飾磨区妻鹿)で、職隆墓石が発見されている。山本喜右衛門が派遣され、玉垣(たまがき)を廻らせ、上家(うわや)を新築し墓石を祀る
10年を前後して職隆墓石。そして、その父と職隆室明石女、つまり孝高母の墓誌が発見された。不思議なのは職隆とその室明石女の夫婦がそろう形で墓石なり墓誌なりが発見されなかったのか
どうしたわけで、職隆室明石女と姑にあたる重隆の墓誌が発見されたのか
山本喜右衛門は報告書「姫路御古墓記」に、孝高は重隆の子で小寺当主職隆の元へ養子に入ったという播磨出張中に採取した話を記している
天明三年発見の墓誌は、重隆と明石女を夫婦とするもので、二人のあいだに生まれたのが孝高と推測すれば、孝高は小寺職隆の元へ養子に出たという武乕採取の話が整合性をもつことになる、、、

黒田職隆墓石塔図
十年前の天明三年1783秋には姫路城東南の妻鹿(めが)村(兵庫県姫路市飾磨区妻鹿)で、職隆墓石が発見されている。山本喜右衛門が派遣され、玉垣(たまがき)を廻らせ、上家(うわや)を新築し墓石を祀る
10年を前後して職隆墓石。そして、その父と職隆室明石女、つまり孝高母の墓誌が発見された。不思議なのは職隆とその室明石女の夫婦がそろう形で墓石なり墓誌なりが発見されなかったのか
どうしたわけで、職隆室明石女と姑にあたる重隆の墓誌が発見されたのか
山本喜右衛門は報告書「姫路御古墓記」に、孝高は重隆の子で小寺当主職隆の元へ養子に入ったという播磨出張中に採取した話を記している
天明三年発見の墓誌は、重隆と明石女を夫婦とするもので、二人のあいだに生まれたのが孝高と推測すれば、孝高は小寺職隆の元へ養子に出たという武乕採取の話が整合性をもつことになる、、、

黒田職隆墓石塔図
2024年02月23日
大嘗祭祭儀の始源、阿曇神話・海幸山幸神話と龍神
龍神と綿津見神の混同に応える一文、、、

さて、龍です。
漢高祖・劉邦は、龍が父。龍と結ばれた母が産んだという伝承をもちます(『史記』)。
古代中華の魔物辞典といえる春秋戦国時代(BC770~221)成立の『山海経』に、始祖黄帝は龍に乗ったとあります。
高麗始祖王・東明王の母は河伯の子だといいます。(『魏書』『隋書』『周書』各高麗伝 『三国史記』『広開土王碑文』)。河伯は、つまり龍。
新羅始祖・朴赫居世の妃は、龍の脇から生まれたといいます(『三国史記』『三国遺事』)。
世界最古の龍を象る遺物が、BC4000年頃のものとされる、西水披遺跡(現共産中国河南省濮陽市)遺跡から出土しています。遺体を取り巻き敷き詰められた、貝殻で描かれた龍だそうです。昨夏には、BC4500~3000年の遺跡と考えられるモンゴル自治区彩陶坡遺跡から龍頭の飾りが出土しました。
そういえば『ゲド戦記』に龍、ドラゴンが活躍するな、と、思い出してネット上での確認ですが調べてみると、ギリシャ・ローマ神話、メソポタミア神話、ケルト神話、ゲルマン神話、いずれにもドラゴンが登場します。
では列島、豊秋津島国ではどうでせう。
記紀神話中の始祖神話、ニニギノ命の降臨。ホスソリ命・ホスセリ命・ホオリ命が活躍する海神宮巡遊、いわゆる海幸山幸神話。そして、アメノオシホミミ命からスサノオ命・ヒルメムチ、イザナギ命・イザナミ命、タカギムスビノカミへと遡りますが、どこにも龍の登場はありません。
ホオリ命とのあいだにウガヤフキアエズノ命を産んだ、トヨタマヒメ命が産室で化身した姿はヤヒロノワニであり龍、ドラゴンではありません。スサノオ命がクシナダヒメノ命を救おうと戦った相手はヤマタノオロチ。大蛇。
ギリシャ・ローマ神話中の人界始祖神話、朝鮮始祖王神話と、海神宮巡遊神話、イザナギ・イザナミ神話との間には共通する話素が多々あります。
東西をトルコ系騎馬遊牧民、スキタイ系騎馬遊牧民が共通する話素でつないだのだろうとは、現代の比較神話学界では通説です(大林太良・吉田敦彦・守屋俊彦・松前健・松村武雄・次田真幸)。
ここで不思議なのは、海神宮巡遊神話、イザナギ・イザナミ神話が形成されたと推測される、縄文時代中期から弥生時代前期には、龍、ドラゴンを登場させる神話が半島まで届くのですが、列島まで降りてくることはなかったということです。この件については、ただただ、謎だと考える他なく、説明する理屈の持ち合わせはありません。
さて、しかし、それでも、道教の流入がはじまる古墳時代以降には、古墳からの出土品に龍頭鉄剣がみられることや、宇多天皇即位時、仁和三年887に黄龍が現れたとの報告がなされる(『扶桑略記』)。10Cの船載品と考えられる宗像神社の金銅製龍頭など、龍神信仰につながる事物がみられるようになります。
これらは、海神宮巡遊神話、イザナギ・イザナミ神話が成立するのに遅れて、古墳時代以降に豊秋津島国に流入した龍神信仰の流入を示唆する事象や遺物ですが、龍神信仰は、あくまで河川と降雨への信仰であり、荒川絋氏が著書『龍の起源』で「代表的な龍が黄河の神である河伯である」と述べるように水神への信仰なのです。広く海洋を主宰する神、綿津見神への神祭りとは異なります。
中世にいたり、海神宮巡遊神話の舞台、ワダツミノイロコノ宮を竜宮城と記すようなことが起こったところから、水神信仰である龍神信仰との混同が始まったのでせうが、神祭りとしての内容、質は異なります。
これまで日向神話と呼ばれて、隼人族が伝承する神話とされてきた海神宮巡遊神話ですが、守屋俊彦氏は「そこで思うにこれはもともと阿曇氏の管理していた降神の儀礼であったのではないだろうか」(『記紀神話論考』雄山閣p363)と述べます。海神宮巡遊神話、海幸山幸神話は、阿曇氏が伝承する降神儀礼の神話化だということですが、同説も現在の比較神話学では、最も有力な説として通っています。
同神話は、天津神と綿津見、つまり海神とのあいだの婚姻、共食、犬の遠吠えなどの話素から構成されますが、これは大嘗祭の祭儀に通じます。そうした点から、同神話は「大嘗祭儀を反映したもの」([海幸山幸神話の形成と阿曇連」次田真幸『日本神話研究』3p119)と松前健氏は指摘します。翻って推測すれば、海神宮巡遊神話から再生される阿曇氏における、王継承についての祭儀が取り入れられて大嘗祭は、その形を整えたとも考えられます。
大嘗祭祭儀の原点とも考えられる、綿津見神信仰、阿曇の神祭りは、龍神信仰とは全くことなるものです。
画/青木繁「ワタツミノイロコノ宮」

さて、龍です。
漢高祖・劉邦は、龍が父。龍と結ばれた母が産んだという伝承をもちます(『史記』)。
古代中華の魔物辞典といえる春秋戦国時代(BC770~221)成立の『山海経』に、始祖黄帝は龍に乗ったとあります。
高麗始祖王・東明王の母は河伯の子だといいます。(『魏書』『隋書』『周書』各高麗伝 『三国史記』『広開土王碑文』)。河伯は、つまり龍。
新羅始祖・朴赫居世の妃は、龍の脇から生まれたといいます(『三国史記』『三国遺事』)。
世界最古の龍を象る遺物が、BC4000年頃のものとされる、西水披遺跡(現共産中国河南省濮陽市)遺跡から出土しています。遺体を取り巻き敷き詰められた、貝殻で描かれた龍だそうです。昨夏には、BC4500~3000年の遺跡と考えられるモンゴル自治区彩陶坡遺跡から龍頭の飾りが出土しました。
そういえば『ゲド戦記』に龍、ドラゴンが活躍するな、と、思い出してネット上での確認ですが調べてみると、ギリシャ・ローマ神話、メソポタミア神話、ケルト神話、ゲルマン神話、いずれにもドラゴンが登場します。
では列島、豊秋津島国ではどうでせう。
記紀神話中の始祖神話、ニニギノ命の降臨。ホスソリ命・ホスセリ命・ホオリ命が活躍する海神宮巡遊、いわゆる海幸山幸神話。そして、アメノオシホミミ命からスサノオ命・ヒルメムチ、イザナギ命・イザナミ命、タカギムスビノカミへと遡りますが、どこにも龍の登場はありません。
ホオリ命とのあいだにウガヤフキアエズノ命を産んだ、トヨタマヒメ命が産室で化身した姿はヤヒロノワニであり龍、ドラゴンではありません。スサノオ命がクシナダヒメノ命を救おうと戦った相手はヤマタノオロチ。大蛇。
ギリシャ・ローマ神話中の人界始祖神話、朝鮮始祖王神話と、海神宮巡遊神話、イザナギ・イザナミ神話との間には共通する話素が多々あります。
東西をトルコ系騎馬遊牧民、スキタイ系騎馬遊牧民が共通する話素でつないだのだろうとは、現代の比較神話学界では通説です(大林太良・吉田敦彦・守屋俊彦・松前健・松村武雄・次田真幸)。
ここで不思議なのは、海神宮巡遊神話、イザナギ・イザナミ神話が形成されたと推測される、縄文時代中期から弥生時代前期には、龍、ドラゴンを登場させる神話が半島まで届くのですが、列島まで降りてくることはなかったということです。この件については、ただただ、謎だと考える他なく、説明する理屈の持ち合わせはありません。
さて、しかし、それでも、道教の流入がはじまる古墳時代以降には、古墳からの出土品に龍頭鉄剣がみられることや、宇多天皇即位時、仁和三年887に黄龍が現れたとの報告がなされる(『扶桑略記』)。10Cの船載品と考えられる宗像神社の金銅製龍頭など、龍神信仰につながる事物がみられるようになります。
これらは、海神宮巡遊神話、イザナギ・イザナミ神話が成立するのに遅れて、古墳時代以降に豊秋津島国に流入した龍神信仰の流入を示唆する事象や遺物ですが、龍神信仰は、あくまで河川と降雨への信仰であり、荒川絋氏が著書『龍の起源』で「代表的な龍が黄河の神である河伯である」と述べるように水神への信仰なのです。広く海洋を主宰する神、綿津見神への神祭りとは異なります。
中世にいたり、海神宮巡遊神話の舞台、ワダツミノイロコノ宮を竜宮城と記すようなことが起こったところから、水神信仰である龍神信仰との混同が始まったのでせうが、神祭りとしての内容、質は異なります。
これまで日向神話と呼ばれて、隼人族が伝承する神話とされてきた海神宮巡遊神話ですが、守屋俊彦氏は「そこで思うにこれはもともと阿曇氏の管理していた降神の儀礼であったのではないだろうか」(『記紀神話論考』雄山閣p363)と述べます。海神宮巡遊神話、海幸山幸神話は、阿曇氏が伝承する降神儀礼の神話化だということですが、同説も現在の比較神話学では、最も有力な説として通っています。
同神話は、天津神と綿津見、つまり海神とのあいだの婚姻、共食、犬の遠吠えなどの話素から構成されますが、これは大嘗祭の祭儀に通じます。そうした点から、同神話は「大嘗祭儀を反映したもの」([海幸山幸神話の形成と阿曇連」次田真幸『日本神話研究』3p119)と松前健氏は指摘します。翻って推測すれば、海神宮巡遊神話から再生される阿曇氏における、王継承についての祭儀が取り入れられて大嘗祭は、その形を整えたとも考えられます。
大嘗祭祭儀の原点とも考えられる、綿津見神信仰、阿曇の神祭りは、龍神信仰とは全くことなるものです。
画/青木繁「ワタツミノイロコノ宮」
2024年02月22日
〜雉の頓使(ひたつかひ)〜古事記・上
……即ち天若日子(あめわかひこ)、天つ神の賜へりし天(あめ)のはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉(きぎし)を射殺しき。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆(さかしま)に射上げらえて、天の安の河の河原に坐す天照大御神・高木神の御所(みもと)に逮(いた)りき。……其の矢を取りて、其の矢の穴より衝き返し下(くだ)したまへば、天若日子が故床(あぐら)に寝(いね)たる高胸坂(たかむなさか)に中(あた)りて死にき。〈此れ還矢(かへりや)の本なり。〉亦、其の雉、還らざりき。故、今に諺に「雉の頓使(ひたつかひ)」と曰ふ本は是れなり。(古事記記・上)
【現代語訳】
下界を巡察せよと命じられた天若日子(あめわかひこ)。三年を経ても復命がなかった。天つ神はいぶかりキジを使いにやる。これは「雉の頓使(ひたつかひ)」という語のはじまり。天若日子これをわずらわしいと、かねて天つ神より与えられたアメのはじ弓・アメのかく矢をもち、使いの雉を射殺すと、その矢は
天の安の河の河原に至る。天照大御神・高木神は、その矢を下界に投じると、天若日子の寝所に至り、その胸を突き通した。還矢とはこのことをいふ、、

画/若冲「雉子頭」
【現代語訳】
下界を巡察せよと命じられた天若日子(あめわかひこ)。三年を経ても復命がなかった。天つ神はいぶかりキジを使いにやる。これは「雉の頓使(ひたつかひ)」という語のはじまり。天若日子これをわずらわしいと、かねて天つ神より与えられたアメのはじ弓・アメのかく矢をもち、使いの雉を射殺すと、その矢は
天の安の河の河原に至る。天照大御神・高木神は、その矢を下界に投じると、天若日子の寝所に至り、その胸を突き通した。還矢とはこのことをいふ、、

画/若冲「雉子頭」
2024年02月19日
花山天皇・忯子と桐壺帝・桐壺/雨夜の品定め的布石/兼家の怒りをたたえた笑い、、
〜 光の君へ 第7回「 おかしきことこそ」〜
花山天皇中宮・忯子薨去ではじまる今回。寛和元年985.七月一八日。忯子は、寵愛をうけた花山天皇を遺して世を去ります。事実としてあった、二人の関係は『源氏物語』第一帖〜桐壺〜に描かれる、桐壺帝と光源氏の母・桐壺更衣との物語のモデルといわれます

桐壺。その名は、後宮中、最も身分が低い女御に与えられる桐壺を与えられたところからでした。桐壺帝からの寵愛は、当然のように皇后の立場にある弘徽殿女御ほか、他の女御たちからの嫉みをうけ、心労から早世します。忯子は、宿した子と共に逝去。桐壺は、光源氏を産み三年後の逝去。この点が異なります。もっとも、桐壺とともに光源氏が死んでしまうようでは、『源氏物語』は成立しなくなるわけで、、、

奇行と忯子との恋愛で知られる花山天皇ですが、史実としてあることは、側近・藤原義懐を重用しての荘園整理令への取組です。天武天皇以来200年、公地公民の制による中央集権的土地制度が崩壊しつつあることへの楔。醍醐天皇の延喜二年902年に最初の荘園整理令が出されますが、徹底をはかることができませんでした。第5回「告白」では、花山天皇が強行する荘園整理令に対し、右大臣・段田兼家、左大臣・益岡雅信、関白・橋爪頼忠の三者が「われらが標的」と、口をそろえて言う場面がありましたが、臣下に不平を誘うほどの仕事をした花山天皇です
さて、打球が終わると、雨の中、倫子のペットの猫が飛び出すのを追いまひろ式部は、道長らが更衣に入った控えの壁越しで話を聞くことになります。雨、そして男たちの女性観の披瀝。これは、三歳で母桐壺と死に分かれた光源氏も十七歳。五月雨の夜、頭中将らと女性を品評。俗に「雨夜の品定め」といわれる第二帖〜帚木〜にある話へのオマージュ
まひろ式部は、「出世のために身分の高い家の女を正妻におき、毎夜、気に入った女の元に通うことだ」という、男たちのあいだに交わされた品評の結論に、嫌悪すか、失望か、それとも、自身の身のほど知らずといえる柄本道長への思いを断ち切る思いからか、道長からの贈歌「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし 恋しき人のみまく欲しさに」を焼きます
男たちの、いわば女御定めを壁をへだててまひろ式部が聞くことになる、このシーンには不思議な感響を覚えるのです。まひろ式部、吉高由里子のやるせない表情に引き込まれる一方、男たちの会話の原典「雨夜の品定め」を書いたのは当の本人が困惑顔でいる、と、いうような、、
まひろ式部の『源氏物語』著述への布石となるシーンなのかもしれません、


岸谷為時が心が痛みますと、花山天皇とのあいだの間者役を外していただきたと懇願した時の段田兼家の冷たい笑い。「そうか、それは苦しいことであった。よかろう。悪かった」と、口にしながらの目の動き。笑みの奥の怒り。役者・段田安則の底の深さに怯えるのです、、
一方、矢部太郎乙丸は、兼家家家人に襲われるなか、逃げ足早く逃れるまひろ式部においていかれて気絶。その後「置いていくなんてヒドイ!」と愚痴るという、愛されキャラ

さて、来週は、その段田兼家が倒れ、まひろ式部は仇・玉置道兼を前に琵琶を奏すようで、、、
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花山天皇中宮・忯子薨去ではじまる今回。寛和元年985.七月一八日。忯子は、寵愛をうけた花山天皇を遺して世を去ります。事実としてあった、二人の関係は『源氏物語』第一帖〜桐壺〜に描かれる、桐壺帝と光源氏の母・桐壺更衣との物語のモデルといわれます

桐壺。その名は、後宮中、最も身分が低い女御に与えられる桐壺を与えられたところからでした。桐壺帝からの寵愛は、当然のように皇后の立場にある弘徽殿女御ほか、他の女御たちからの嫉みをうけ、心労から早世します。忯子は、宿した子と共に逝去。桐壺は、光源氏を産み三年後の逝去。この点が異なります。もっとも、桐壺とともに光源氏が死んでしまうようでは、『源氏物語』は成立しなくなるわけで、、、

奇行と忯子との恋愛で知られる花山天皇ですが、史実としてあることは、側近・藤原義懐を重用しての荘園整理令への取組です。天武天皇以来200年、公地公民の制による中央集権的土地制度が崩壊しつつあることへの楔。醍醐天皇の延喜二年902年に最初の荘園整理令が出されますが、徹底をはかることができませんでした。第5回「告白」では、花山天皇が強行する荘園整理令に対し、右大臣・段田兼家、左大臣・益岡雅信、関白・橋爪頼忠の三者が「われらが標的」と、口をそろえて言う場面がありましたが、臣下に不平を誘うほどの仕事をした花山天皇です
さて、打球が終わると、雨の中、倫子のペットの猫が飛び出すのを追いまひろ式部は、道長らが更衣に入った控えの壁越しで話を聞くことになります。雨、そして男たちの女性観の披瀝。これは、三歳で母桐壺と死に分かれた光源氏も十七歳。五月雨の夜、頭中将らと女性を品評。俗に「雨夜の品定め」といわれる第二帖〜帚木〜にある話へのオマージュ
まひろ式部は、「出世のために身分の高い家の女を正妻におき、毎夜、気に入った女の元に通うことだ」という、男たちのあいだに交わされた品評の結論に、嫌悪すか、失望か、それとも、自身の身のほど知らずといえる柄本道長への思いを断ち切る思いからか、道長からの贈歌「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし 恋しき人のみまく欲しさに」を焼きます
男たちの、いわば女御定めを壁をへだててまひろ式部が聞くことになる、このシーンには不思議な感響を覚えるのです。まひろ式部、吉高由里子のやるせない表情に引き込まれる一方、男たちの会話の原典「雨夜の品定め」を書いたのは当の本人が困惑顔でいる、と、いうような、、
まひろ式部の『源氏物語』著述への布石となるシーンなのかもしれません、


岸谷為時が心が痛みますと、花山天皇とのあいだの間者役を外していただきたと懇願した時の段田兼家の冷たい笑い。「そうか、それは苦しいことであった。よかろう。悪かった」と、口にしながらの目の動き。笑みの奥の怒り。役者・段田安則の底の深さに怯えるのです、、
一方、矢部太郎乙丸は、兼家家家人に襲われるなか、逃げ足早く逃れるまひろ式部においていかれて気絶。その後「置いていくなんてヒドイ!」と愚痴るという、愛されキャラ

さて、来週は、その段田兼家が倒れ、まひろ式部は仇・玉置道兼を前に琵琶を奏すようで、、、
記事内のリンクに不具合がある場合には、ご一報いただけるとしあわせです。
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2024年02月12日
初春令月、風和ぎ梅咲く旧暦元日」jrと渡船を乗り継ぎ.香椎・宇美・志賀海三社詣
令和6年2月10日(土)7:30 香椎宮楼門前に集合。かなり早い!
天平二年正月、帥・大伴旅人邸での詠歌をまとめた、万葉集巻五・梅花宴三十首の詞書に「時に初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き」とあります。元号令和の出典でもありますが、ここにあるように正月は梅花開く頃でした。梅ほころぶ旧暦正月・元日2月10日にJRうみなか線と福岡市営渡船を乗り継いでの香椎宮・宇美八幡宮・志賀海神社三社詣でした、、

香椎宮、、
本殿へお参りする前に、御田祖、大伴武以大連を祭神に祭る摂社・早辻神社へ。天平二年730二月、大伴旅人帥着任二年後に、武以大連末裔・大伴国綱が香椎宮司に着任。(『太宰管内志』筑前之九・糟屋郡上)。旅人が帥にあるあいだ香椎宮は大伴が祭祀をつとめる。旅人室・大伴郎女、妹・坂上郎女なども。のち大伴は、伴、そして御田と苗字を変える、、

鶏石神社と勅使来迎標石
鶏石神社は『古事記』天岩門開き段に出てくる常世の長鳴鳥が祭神。創建は、福岡藩が奨励した養鶏をおこなう農家の組合か仲卸業者によるものと思う。
勅使を迎えたときの待機場をしめす標石は、御休息所・御手水所・御祓所・御脱剣所・衛士居所の五つが境内に建つ。 画像は拝殿へ昇る石段下の御手水所を示す標石

ぐるりと周り、御神木・綾杉正面へ、、
神功皇后にまつわる伝説はそこそこに、綾杉前では大宰帥、筑前守はじめ九州へ下る役官が、着任報告の参拝に際して宮司から「綾杉挿頭」を授かることについて、、、

【綾杉挿頭・史料】
「筑紫の国に到れば、例に先ず架襲の、宮に参謁づ、架襲は可紫比なり」
『筑前国風土記逸文』仁和寺本『萬葉集註釋』卷第四,六九五七番歌條
隆家卿大宰帥に二たひなりて後のたひ、香椎御社にまいりたりけるに、神主こと
のもとゝて、杉のはをおりて、帥かうふりにさすとて、よめる。 神主 大膳武忠
ちはやふる かしゐの宮の 杉の葉を 二たひかさす わが君そきみ
『金葉和歌集』藤原隆家 帥任期 長和三年1014〜寛仁三年1020/長暦元年1037〜長久三年1042
筑前国にて、香椎宮の祭の日、梅花をさしてよめる、国の例にて、冬は杉をさして、前の守も必ず歌よめる
年ごとに 匂いまされる 梅の花 おなし色にて すきをかさゝむ
源道済 長和四年(1015)大宰少弐着官『源道済集』
本殿へ、、
去年遷宮を終えて、本殿はピカピカ。香椎廟と称されたこと。廟は大陸風に墳墓指すこと。神明造りは神宮他、八幡造りは宇佐神宮他、住吉造りは摂津住吉社・筑前住吉社ほか、全国に見られるが、正面方向と別に本殿左右に破風をもつ香椎造りは、ここ香椎宮が唯一だということ、など。大陸風に廟と称されたこととあわせて、外国使節の来招時、最初に迎える施設として特殊な造りを誇ってのことかとおもわれる。

福岡藩七代継高寄進の鳥居をくぐり、仲哀天皇古宮跡へ、、
香椎という地名については、住吉大神が神功皇后の口を借りて放たれた「一道にゆけ」という呪詞により、身罷った仲哀天皇の遺体を収めた樫の棺が香ったところからという俗説がある。一方、香椎、また粕屋は、古代朝鮮語で首都をいう「カシヒ」だという説があることを説明
また、聖武天皇即位同年、神亀元年724の香椎宮の創建は、朝廷による神社統制政策の仕上げであった。以後、志賀海神社は香椎宮傘下として管理される。香椎宮の春秋の大祭には、志賀島の海人たちは香椎宮へ贄物を献上し舞を奉納。その衣装が古びれば、官費の拠出がおこなわれた。現在でも大祭には志賀海神社から使者がたつ。その関係は、神社統制政策が進んでいく過程の証、、
表境内の弁財天祠により、JR香椎神宮駅へ8:57発宇美行き乗車。宇美駅9:27着

宇美八幡宮奥宮・胞衣ヶ浦へ
奥宮・胞衣ヶ浦への途中、宇美川にかかる橋。東の空を望むと、若杉山と砥石山の間にショウケ越。その向こうには穂波・大分八幡宮、そして田川・香春神社、更に東には宇佐八幡宮。博多湾に面した筥崎八幡宮から、宇美八幡宮、大分八幡宮、香春神社、宇佐八幡宮と東西一線上に鉄の神でもある八幡神がならぶ(香春社も八幡社系)
胞衣ヶ浦は、神功皇后、応神天皇出産の際の胞衣を埋めたとされる聖地。安産を願い、ここに積まれた石を持ち帰り、出産後にはお礼参りとともに石を戻す

八幡宮map

宇美八幡本宮へ、ウメも開く

自由時間。境内宇美八幡茶屋で子安餅・境内外の酒蔵「萬代」。宇美町立歴史民俗資料館もよい、、、
楠のウロにふくろうの子が入るのは夏、、、

11:35JR宇美駅発香椎行き →12:05香椎着 →乗り換え→12:09発.西戸崎行き→12:29JR西戸崎着 →乗り換え→12:45西戸崎発市営渡船→13:00志賀島着

志賀海神社参道半ばの、御旅所・宮司宅.矢場
御旅所は秋の国土祭りで、二年に一度、神輿が巡幸。細男の舞が奉納される。宮司邸横の矢場は、現在、仮のもの。本来、高校の弓道部が持つような矢場がある

禊の瀬と、立花山を望む遠景
夏でも真冬でも、志賀海神社の神事は、ここで神職が禊をおこなうところからはじまる。遠景の立花山は、少なくとも、磐井の時代まで遡り、イザナギ・イザナミの磐座としての呼称「二神山」と呼ばれていた。そして海の中道を介して、イザナギ御子神・綿津見神が志賀島に鎮座する。立花山・海の中道・志賀島に渡る、海・空・山野はイザナギ神話の空間、、、

参道のウメと本殿前

今宮社と勝馬表津宮と本殿・綿津見神
今宮社の祭神は「故、阿曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり」とある、宇都志日金拆命。今宮社は、本殿に対して今宮ではなく、かつて志賀海社が鎮座した故地という志賀島北岸の勝馬にある表津宮に対して今宮。つまり今宮社にたいして、表津宮が古社。この位置的関係は、天智・天武朝の頃から始められた神社の統制政策の過程を残しているのではと推測される。本来、阿曇は宇都志日金拆命を祖神として祭っていたが、同神格上位に綿津見神が配置されることにより、全国的な統制の枠のなかに組み入れられた、と、、、

表津宮
と、いうわけで解散。志賀海神社参道「和カフェ」で食事、、、
おつかれ様でございました、、、、、


次回予告、、
天平二年正月、帥・大伴旅人邸での詠歌をまとめた、万葉集巻五・梅花宴三十首の詞書に「時に初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き」とあります。元号令和の出典でもありますが、ここにあるように正月は梅花開く頃でした。梅ほころぶ旧暦正月・元日2月10日にJRうみなか線と福岡市営渡船を乗り継いでの香椎宮・宇美八幡宮・志賀海神社三社詣でした、、

香椎宮、、
本殿へお参りする前に、御田祖、大伴武以大連を祭神に祭る摂社・早辻神社へ。天平二年730二月、大伴旅人帥着任二年後に、武以大連末裔・大伴国綱が香椎宮司に着任。(『太宰管内志』筑前之九・糟屋郡上)。旅人が帥にあるあいだ香椎宮は大伴が祭祀をつとめる。旅人室・大伴郎女、妹・坂上郎女なども。のち大伴は、伴、そして御田と苗字を変える、、

鶏石神社と勅使来迎標石
鶏石神社は『古事記』天岩門開き段に出てくる常世の長鳴鳥が祭神。創建は、福岡藩が奨励した養鶏をおこなう農家の組合か仲卸業者によるものと思う。
勅使を迎えたときの待機場をしめす標石は、御休息所・御手水所・御祓所・御脱剣所・衛士居所の五つが境内に建つ。 画像は拝殿へ昇る石段下の御手水所を示す標石

ぐるりと周り、御神木・綾杉正面へ、、
神功皇后にまつわる伝説はそこそこに、綾杉前では大宰帥、筑前守はじめ九州へ下る役官が、着任報告の参拝に際して宮司から「綾杉挿頭」を授かることについて、、、

【綾杉挿頭・史料】
「筑紫の国に到れば、例に先ず架襲の、宮に参謁づ、架襲は可紫比なり」
『筑前国風土記逸文』仁和寺本『萬葉集註釋』卷第四,六九五七番歌條
隆家卿大宰帥に二たひなりて後のたひ、香椎御社にまいりたりけるに、神主こと
のもとゝて、杉のはをおりて、帥かうふりにさすとて、よめる。 神主 大膳武忠
ちはやふる かしゐの宮の 杉の葉を 二たひかさす わが君そきみ
『金葉和歌集』藤原隆家 帥任期 長和三年1014〜寛仁三年1020/長暦元年1037〜長久三年1042
筑前国にて、香椎宮の祭の日、梅花をさしてよめる、国の例にて、冬は杉をさして、前の守も必ず歌よめる
年ごとに 匂いまされる 梅の花 おなし色にて すきをかさゝむ
源道済 長和四年(1015)大宰少弐着官『源道済集』
本殿へ、、
去年遷宮を終えて、本殿はピカピカ。香椎廟と称されたこと。廟は大陸風に墳墓指すこと。神明造りは神宮他、八幡造りは宇佐神宮他、住吉造りは摂津住吉社・筑前住吉社ほか、全国に見られるが、正面方向と別に本殿左右に破風をもつ香椎造りは、ここ香椎宮が唯一だということ、など。大陸風に廟と称されたこととあわせて、外国使節の来招時、最初に迎える施設として特殊な造りを誇ってのことかとおもわれる。

福岡藩七代継高寄進の鳥居をくぐり、仲哀天皇古宮跡へ、、
香椎という地名については、住吉大神が神功皇后の口を借りて放たれた「一道にゆけ」という呪詞により、身罷った仲哀天皇の遺体を収めた樫の棺が香ったところからという俗説がある。一方、香椎、また粕屋は、古代朝鮮語で首都をいう「カシヒ」だという説があることを説明
また、聖武天皇即位同年、神亀元年724の香椎宮の創建は、朝廷による神社統制政策の仕上げであった。以後、志賀海神社は香椎宮傘下として管理される。香椎宮の春秋の大祭には、志賀島の海人たちは香椎宮へ贄物を献上し舞を奉納。その衣装が古びれば、官費の拠出がおこなわれた。現在でも大祭には志賀海神社から使者がたつ。その関係は、神社統制政策が進んでいく過程の証、、
表境内の弁財天祠により、JR香椎神宮駅へ8:57発宇美行き乗車。宇美駅9:27着

宇美八幡宮奥宮・胞衣ヶ浦へ
奥宮・胞衣ヶ浦への途中、宇美川にかかる橋。東の空を望むと、若杉山と砥石山の間にショウケ越。その向こうには穂波・大分八幡宮、そして田川・香春神社、更に東には宇佐八幡宮。博多湾に面した筥崎八幡宮から、宇美八幡宮、大分八幡宮、香春神社、宇佐八幡宮と東西一線上に鉄の神でもある八幡神がならぶ(香春社も八幡社系)
胞衣ヶ浦は、神功皇后、応神天皇出産の際の胞衣を埋めたとされる聖地。安産を願い、ここに積まれた石を持ち帰り、出産後にはお礼参りとともに石を戻す

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宇美八幡本宮へ、ウメも開く

自由時間。境内宇美八幡茶屋で子安餅・境内外の酒蔵「萬代」。宇美町立歴史民俗資料館もよい、、、
楠のウロにふくろうの子が入るのは夏、、、

11:35JR宇美駅発香椎行き →12:05香椎着 →乗り換え→12:09発.西戸崎行き→12:29JR西戸崎着 →乗り換え→12:45西戸崎発市営渡船→13:00志賀島着

志賀海神社参道半ばの、御旅所・宮司宅.矢場
御旅所は秋の国土祭りで、二年に一度、神輿が巡幸。細男の舞が奉納される。宮司邸横の矢場は、現在、仮のもの。本来、高校の弓道部が持つような矢場がある

禊の瀬と、立花山を望む遠景
夏でも真冬でも、志賀海神社の神事は、ここで神職が禊をおこなうところからはじまる。遠景の立花山は、少なくとも、磐井の時代まで遡り、イザナギ・イザナミの磐座としての呼称「二神山」と呼ばれていた。そして海の中道を介して、イザナギ御子神・綿津見神が志賀島に鎮座する。立花山・海の中道・志賀島に渡る、海・空・山野はイザナギ神話の空間、、、

参道のウメと本殿前

今宮社と勝馬表津宮と本殿・綿津見神
今宮社の祭神は「故、阿曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり」とある、宇都志日金拆命。今宮社は、本殿に対して今宮ではなく、かつて志賀海社が鎮座した故地という志賀島北岸の勝馬にある表津宮に対して今宮。つまり今宮社にたいして、表津宮が古社。この位置的関係は、天智・天武朝の頃から始められた神社の統制政策の過程を残しているのではと推測される。本来、阿曇は宇都志日金拆命を祖神として祭っていたが、同神格上位に綿津見神が配置されることにより、全国的な統制の枠のなかに組み入れられた、と、、、

表津宮
と、いうわけで解散。志賀海神社参道「和カフェ」で食事、、、
おつかれ様でございました、、、、、


次回予告、、
2024年02月12日
女こそ重要、平安社会/道長「望月の歌」への暗喩/式部日記から元輔セリフ・伊勢物語・万葉集から
〜光の君へ 第6回「 ふたりの才女」〜
冒頭、水鏡に映る道長の顔に見入る、まひろ式部。
『源氏物語』には、政敵、右大臣六女、東宮時代の朱雀帝の寵愛を受けた「朧月夜」との恋愛が原因で、須磨へ流されるごとく隠退を余儀なくされた源氏へ、妻の紫の上が贈る歌があります、、

別れても 影だに止まる ものならば 鏡を見ても慰めてまし
(たとえお別れしても、あなたの影がとどめる鏡をのぞき、お会いできない寂しさを慰めます)
為時が「そなたが男であれば」と嘆き、「女でも役に立つことが」と、まひろが答えます。倫子のサロンへ通うことを続ける意思を
まひろが明らかにする場面
女として女房・紫式部が重要な役割を担っていたことは、藤原実資が日記『小右記』長和二年五月二十五日 条に伝えています
資平を去んぬる夜密々皇太后に参らしむ。東宮 御悩みの間、仮により不参の由を啓せしむ。今朝帰り 来たりて云わく、去んぬる夜、女房に相逢う(越後守 為時の女。此の女を以て前々雑事を啓せしむるのみ)。 彼の女云わく、東宮の御悩み重きにあらずと雖も、猶 御尋常ならざる内、熱気いまだ散じたまわず。亦左府(道長)聊か患いの気あり、てへり」
こうして、実資は越後守為時の女である女房つまり、紫式部を通じて、皇太后(一条天皇母・彰子)に雑事を申し上げていたこと、左府・道長についての情報を得ていたこと、を、記録しています
兼家が、唐突に道長に対して源倫子の婿になれと進めます。この時代、結婚は嫁取り婚ではなく、婿取り婚が一般的でした。道長が倫子と結ばれたのは事実です.その仲人役について「光の君へ」は、兼家を設定するわけですが、道長姉詮子・東三条院だといわれています

倫子父・左大臣源雅信は、道長を婿にとることに反対だったようですが、母・穆子は道長の才を見抜き倫子が道長と結ばれることを強く願ったと『栄花物語』は述べます
隆家邸で催された漢詩会では、藤原公任作について、まひろ式部と今回が初登場となる桔梗納言の評が示されます

「白楽天のような歌いぶりでございました」とまひろ。「むしろ、白楽天の無二の親友だった元微之のような闊達な歌いぶり」と桔梗納言。ここでふたりが名をあげた唐の詩人・白楽天と元微之については、『小右記』に実資が記録して、今に伝わる道長の「望月の」云々の歌との関わりが暗喩としてあるやうな、、、。白楽天、元微之の名をだしての、ふたりの評に隠される喩えについての答は、これから触れられることもあるかもしれません
父・清原元輔が桔梗納言にたいして、「出しゃばるな」的なことを言います。
これは、『紫式部日記』に
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ
清少納言は得意に漢字を使うが、漢文の知識は未熟。勘違いで「自分は人と違うん」と思い込んでいるだけで見劣りする。ひとときの間ちやほやされても、そのうちにおわる
と、式部が書く清少納言への評価を、かわりに元輔に言わせています
漢詩会での、はからずもの久しぶりの再会に道長がまひろ式部へ贈った歌は、
ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし 恋しき人のみまく欲しさに
『伊勢物語』
ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 大宮人の 見まくほしさに
(神が敷く結界も破り、都人であるあなたに会いたい)
『万葉集』
ちはやぶる 神の斎垣も越えぬべし 今はわが名は 惜しけくも無し
(神が敷く結界も破り、あなたに会おう。わたしの名などどれほどのものか)
からの元歌取り。ドラマオリジナルの歌作のようです
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冒頭、水鏡に映る道長の顔に見入る、まひろ式部。
『源氏物語』には、政敵、右大臣六女、東宮時代の朱雀帝の寵愛を受けた「朧月夜」との恋愛が原因で、須磨へ流されるごとく隠退を余儀なくされた源氏へ、妻の紫の上が贈る歌があります、、

別れても 影だに止まる ものならば 鏡を見ても慰めてまし
(たとえお別れしても、あなたの影がとどめる鏡をのぞき、お会いできない寂しさを慰めます)
為時が「そなたが男であれば」と嘆き、「女でも役に立つことが」と、まひろが答えます。倫子のサロンへ通うことを続ける意思を
まひろが明らかにする場面
女として女房・紫式部が重要な役割を担っていたことは、藤原実資が日記『小右記』長和二年五月二十五日 条に伝えています
資平を去んぬる夜密々皇太后に参らしむ。東宮 御悩みの間、仮により不参の由を啓せしむ。今朝帰り 来たりて云わく、去んぬる夜、女房に相逢う(越後守 為時の女。此の女を以て前々雑事を啓せしむるのみ)。 彼の女云わく、東宮の御悩み重きにあらずと雖も、猶 御尋常ならざる内、熱気いまだ散じたまわず。亦左府(道長)聊か患いの気あり、てへり」
こうして、実資は越後守為時の女である女房つまり、紫式部を通じて、皇太后(一条天皇母・彰子)に雑事を申し上げていたこと、左府・道長についての情報を得ていたこと、を、記録しています
兼家が、唐突に道長に対して源倫子の婿になれと進めます。この時代、結婚は嫁取り婚ではなく、婿取り婚が一般的でした。道長が倫子と結ばれたのは事実です.その仲人役について「光の君へ」は、兼家を設定するわけですが、道長姉詮子・東三条院だといわれています

倫子父・左大臣源雅信は、道長を婿にとることに反対だったようですが、母・穆子は道長の才を見抜き倫子が道長と結ばれることを強く願ったと『栄花物語』は述べます
隆家邸で催された漢詩会では、藤原公任作について、まひろ式部と今回が初登場となる桔梗納言の評が示されます

「白楽天のような歌いぶりでございました」とまひろ。「むしろ、白楽天の無二の親友だった元微之のような闊達な歌いぶり」と桔梗納言。ここでふたりが名をあげた唐の詩人・白楽天と元微之については、『小右記』に実資が記録して、今に伝わる道長の「望月の」云々の歌との関わりが暗喩としてあるやうな、、、。白楽天、元微之の名をだしての、ふたりの評に隠される喩えについての答は、これから触れられることもあるかもしれません
父・清原元輔が桔梗納言にたいして、「出しゃばるな」的なことを言います。
これは、『紫式部日記』に
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ
清少納言は得意に漢字を使うが、漢文の知識は未熟。勘違いで「自分は人と違うん」と思い込んでいるだけで見劣りする。ひとときの間ちやほやされても、そのうちにおわる
と、式部が書く清少納言への評価を、かわりに元輔に言わせています
漢詩会での、はからずもの久しぶりの再会に道長がまひろ式部へ贈った歌は、
ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし 恋しき人のみまく欲しさに
『伊勢物語』
ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 大宮人の 見まくほしさに
(神が敷く結界も破り、都人であるあなたに会いたい)
『万葉集』
ちはやぶる 神の斎垣も越えぬべし 今はわが名は 惜しけくも無し
(神が敷く結界も破り、あなたに会おう。わたしの名などどれほどのものか)
からの元歌取り。ドラマオリジナルの歌作のようです
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2024年02月05日
月と式部/道長の筆跡・乗馬/官位etc
〜光の君へ 第5回「告白」〜
月の夜、三郎道長とまひろ式部が再会するのは、満月照る森深い社殿の一角のような場
『源氏物語』〜五十四帖 夕顔〜に身分を隠しての、夕顔という女性との光源氏の逢瀬が描かれます
「八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋」での逢瀬で、源氏の夢にもののけがあらわれると、夕顔は、はかなく息を絶やすのです、、
出会って以来、身分を隠してきた二人が、それぞれ右大臣・兼家三男道長、従七位下(前後の設定か?)散位・為時娘と、改めて確認する場も満月の夜が用意されたワケです。月光が足元を照らすなか、心に思う三郎道長の兄が母を殺した道兼であった事への戸惑い、悔しさ、与えられた運命の残酷さにまひろ式部が嗚咽する姿には、はからずも落涙を誘われるのです

史実上の式部母の死は、式部の弟が生まれて間もなくとされています。産後の日だちによる落命のようです。史実とは異なる設定で描かれていると知りながらも、涙を誘われるとは、物語、フィクションの力を改めて知るのです
道長は、まひろ式部へ、満月の夜、訪ねると書をよこします。堂々とした筆跡で復元された道長書状がアップで登場しました。
道長は、世界最古の直筆日記『御堂関白記』を伝えます。陽明文庫蔵・国宝。たしかに堂々とした筆跡
道兼によるまひろの母殺しを知り、まひろをその場に残して邸へと騎乗で戻る際の姿は様になっていました。柄本佑は相当、乗馬をやっているなと思うわけです

陽明文庫蔵「御堂関白記」
ところで、ここ、あそこと、今日は位階について語られるシーンが、いくつかありました、
朝廷のどの職「官職」につけるかは身分「位階」次第です
太政大臣「正一位」「従一位」。左大臣「正二位」、右大臣「従二位」、大納言「正三位」、中納言「従三位」。これら「正一位」から「従三位」までがいわゆる「公卿」。上流貴族です
「正四位上」「正四位下」「従四位上」「従四位下」「正五位上」「正五位下」「従五位上」「従五位下」。こちら、中流貴族、「昇殿人」とよばれ内裏清涼殿南廂・殿上の間への昇殿を許された人々。時代が降り、承徳2年1098、天承2年1132になると、源義家、平忠盛とが、それぞれ従位四位下、従位四位上を与えられて、武士、軍事貴族として初めて昇殿人に数えられます
そして、六位以下が「下級貴族」。前回まひろが、「同じ藤原でも下のした、気にしないで」と、まだ三郎として知る道長へ、かきくどくように言うシーンがありました。まひろ式部父・為時は、式部が宮仕に初めて出る頃には、従七位下、または従八位上が勤める、蔵人職、播磨国の権少掾などを歴任していました。こののち冷泉帝の引き立により従五位下に叙されて越後国守に任官します
下のしたと申しましても、それは貴族社会の中だけをみてのことで、当時500万の人口があったと推測されますが、うち貴族階級は150人から200人。全人口からみれば、まひろ式部の家族は上位0.3%にふくまれる、選ばれた上流階級のうちわにある人々なのでした
来週の予告編にはファーストサマーウイカ・清少納言の顔がちらり

紫式部日記に
少納言は、得意げな顔で、文章中に漢字をひけらかす。でも、実際の漢文の知識はというと疑わしい。まして、自意識過剰。必ず、まわりからみくびられる。調子いいのも今だけ。ちょっと見の感性を引き回すだけで、内容を感じない。それで、どうなのだと端から観察するのだけれど、、
と、清少納言評。来週からは、お互いの関係が描かれる、、、
『紫式部日記』清少納言評部分原文
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。
おまけ:財前直見演じる、兼家側室・藤原寧子が登場。この人は、兼家の浮気癖を「嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る」と歌い、百人一首に選収される歌人でもあります。浮気を嘆いて、現代に至るまで観賞にさらされるというの、も、だうなのだらう?歌だけにおさまらず、彼女は 『蜻蛉日記』に、兼家との生活を不遇であった、と綴ります。なお、『蜻蛉日記』は女性初の日記文学、、、
記事内のリンクに不具合がある場合には、ご一報いただけるとしあわせです。
tahi_qz@ybb.ne.jp
紫式部・吉高由里子日記・目次リンク
〜 光の君へ 〜次回予告Movie
那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演 歴史遠足予定
那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演 歴史遠足ご報告
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〒811-0322 福岡市東区大岳3-21-1-301
090-2512-4299・清田
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月の夜、三郎道長とまひろ式部が再会するのは、満月照る森深い社殿の一角のような場
『源氏物語』〜五十四帖 夕顔〜に身分を隠しての、夕顔という女性との光源氏の逢瀬が描かれます
「八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋」での逢瀬で、源氏の夢にもののけがあらわれると、夕顔は、はかなく息を絶やすのです、、
出会って以来、身分を隠してきた二人が、それぞれ右大臣・兼家三男道長、従七位下(前後の設定か?)散位・為時娘と、改めて確認する場も満月の夜が用意されたワケです。月光が足元を照らすなか、心に思う三郎道長の兄が母を殺した道兼であった事への戸惑い、悔しさ、与えられた運命の残酷さにまひろ式部が嗚咽する姿には、はからずも落涙を誘われるのです

史実上の式部母の死は、式部の弟が生まれて間もなくとされています。産後の日だちによる落命のようです。史実とは異なる設定で描かれていると知りながらも、涙を誘われるとは、物語、フィクションの力を改めて知るのです
道長は、まひろ式部へ、満月の夜、訪ねると書をよこします。堂々とした筆跡で復元された道長書状がアップで登場しました。
道長は、世界最古の直筆日記『御堂関白記』を伝えます。陽明文庫蔵・国宝。たしかに堂々とした筆跡
道兼によるまひろの母殺しを知り、まひろをその場に残して邸へと騎乗で戻る際の姿は様になっていました。柄本佑は相当、乗馬をやっているなと思うわけです

陽明文庫蔵「御堂関白記」
ところで、ここ、あそこと、今日は位階について語られるシーンが、いくつかありました、
朝廷のどの職「官職」につけるかは身分「位階」次第です
太政大臣「正一位」「従一位」。左大臣「正二位」、右大臣「従二位」、大納言「正三位」、中納言「従三位」。これら「正一位」から「従三位」までがいわゆる「公卿」。上流貴族です
「正四位上」「正四位下」「従四位上」「従四位下」「正五位上」「正五位下」「従五位上」「従五位下」。こちら、中流貴族、「昇殿人」とよばれ内裏清涼殿南廂・殿上の間への昇殿を許された人々。時代が降り、承徳2年1098、天承2年1132になると、源義家、平忠盛とが、それぞれ従位四位下、従位四位上を与えられて、武士、軍事貴族として初めて昇殿人に数えられます
そして、六位以下が「下級貴族」。前回まひろが、「同じ藤原でも下のした、気にしないで」と、まだ三郎として知る道長へ、かきくどくように言うシーンがありました。まひろ式部父・為時は、式部が宮仕に初めて出る頃には、従七位下、または従八位上が勤める、蔵人職、播磨国の権少掾などを歴任していました。こののち冷泉帝の引き立により従五位下に叙されて越後国守に任官します
下のしたと申しましても、それは貴族社会の中だけをみてのことで、当時500万の人口があったと推測されますが、うち貴族階級は150人から200人。全人口からみれば、まひろ式部の家族は上位0.3%にふくまれる、選ばれた上流階級のうちわにある人々なのでした
来週の予告編にはファーストサマーウイカ・清少納言の顔がちらり

紫式部日記に
少納言は、得意げな顔で、文章中に漢字をひけらかす。でも、実際の漢文の知識はというと疑わしい。まして、自意識過剰。必ず、まわりからみくびられる。調子いいのも今だけ。ちょっと見の感性を引き回すだけで、内容を感じない。それで、どうなのだと端から観察するのだけれど、、
と、清少納言評。来週からは、お互いの関係が描かれる、、、
『紫式部日記』清少納言評部分原文
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。
おまけ:財前直見演じる、兼家側室・藤原寧子が登場。この人は、兼家の浮気癖を「嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る」と歌い、百人一首に選収される歌人でもあります。浮気を嘆いて、現代に至るまで観賞にさらされるというの、も、だうなのだらう?歌だけにおさまらず、彼女は 『蜻蛉日記』に、兼家との生活を不遇であった、と綴ります。なお、『蜻蛉日記』は女性初の日記文学、、、
記事内のリンクに不具合がある場合には、ご一報いただけるとしあわせです。
tahi_qz@ybb.ne.jp
紫式部・吉高由里子日記・目次リンク
〜 光の君へ 〜次回予告Movie
那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演 歴史遠足予定
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〒811-0322 福岡市東区大岳3-21-1-301
090-2512-4299・清田
tahi_qz@ybb.ne.jp
2024年02月03日
梅の福岡城歴史遠足と教室「福岡城命名3つの異説」
ウメ咲く福岡城を天守まで、築城時の黒田孝高・長政父子の肉声を学びながら歴史遠足。福岡市美術館レクチャールームでは。備前福岡からとされる通説とは別の「福岡」命名3異説をご紹介
集 合:令和6年3月2日(土)13:00 福岡城下の橋
参加費:¥3.500-(1日保険含む)
後 援 :福岡市

【遠足詳細】
13:00福岡城下の橋→松木坂御門跡→梅園→天守台→福岡市美術館レクチャールーム:講演「福岡城命名3つの異説」
問い合わせ・申し込み Tel.090-9404-4299
mail: naou_yz@icloud.com

集 合:令和6年3月2日(土)13:00 福岡城下の橋
参加費:¥3.500-(1日保険含む)
後 援 :福岡市

【遠足詳細】
13:00福岡城下の橋→松木坂御門跡→梅園→天守台→福岡市美術館レクチャールーム:講演「福岡城命名3つの異説」
問い合わせ・申し込み Tel.090-9404-4299
mail: naou_yz@icloud.com
