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競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2024年02月23日

職隆墓石と重隆・明石女墓誌と孝高、重隆子・職隆養子説

播磨御着城址(兵庫県姫路市御着)には、孝高祖父・黒田重隆と父職隆室明石氏女の墓塔が建つ。寛政五年1793、現在の兵庫県姫路市御着の御着小寺後裔という、天川久兵衛屋敷内からふたりの墓誌が発見された。かつての黒田主君小寺の居城の近く「筑前様御部屋跡」といわれていた場所。福岡藩は山口武乕を派遣し整備させた

十年前の天明三年1783秋には姫路城東南の妻鹿(めが)村(兵庫県姫路市飾磨区妻鹿)で、職隆墓石が発見されている。山本喜右衛門が派遣され、玉垣(たまがき)を廻らせ、上家(うわや)を新築し墓石を祀る

10年を前後して職隆墓石。そして、その父と職隆室明石女、つまり孝高母の墓誌が発見された。不思議なのは職隆とその室明石女の夫婦がそろう形で墓石なり墓誌なりが発見されなかったのか

どうしたわけで、職隆室明石女と姑にあたる重隆の墓誌が発見されたのか

山本喜右衛門は報告書「姫路御古墓記」に、孝高は重隆の子で小寺当主職隆の元へ養子に入ったという播磨出張中に採取した話を記している

天明三年発見の墓誌は、重隆と明石女を夫婦とするもので、二人のあいだに生まれたのが孝高と推測すれば、孝高は小寺職隆の元へ養子に出たという武乕採取の話が整合性をもつことになる、、、

職隆墓石と重隆・明石女墓誌と孝高、重隆子・職隆養子説
黒田職隆墓石塔図


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