2017年02月16日
島津征討・九州平定戦の黒田官兵衛と宗像一門「小倉攻め」

天正十四、五年の二年にわたる、豊臣秀吉による島津征討・九州平定戦で、宗像一門は、主・宗像氏貞亡き後、結束し、秀吉軍監として九州へ先乗りしたきた黒田官兵衛孝高が指揮する先遣軍に協力したことについてふれました。
先遣軍九州渡海後、直後、現在の小倉北区大里で展開した「大裏表の戦い」で宗像四任衆・吉田重到の子・大炊助が先駆を果たしたkとへの、先遣軍重臣からの感状が伝わるという話でした。
さて、「大裏表の戦い」に続いて、先遣軍は天正十四年十月三日に小倉城を陥落します。この時、宗像一門は遠賀郡の麻生氏家軍と連携して、島津方の麻生鎮里軍(麻生氏は分裂していました)が古賀(遠賀郡)・浅川(八幡西区)・帆柱(八幡東区)・剣城(鞍手郡)の四城から転退する動きを察し、これを撃滅します。また、帆柱山城も接収します。
秀吉派遣の軍監(当時の言葉でいえば「軍目付」)としての孝高の九州での初舞台を宗像一門は、華々しく助けたのでした。
職隆墓石と重隆・明石女墓誌と孝高、重隆子・職隆養子説
官兵衛、安国寺恵瓊を叱るの書状
官兵衛の土牢生活とは関係がなかった、しかも裏紋の黒田藤巴
官兵衛ではなかった高松城水攻案
高松城水攻めは官兵衛じゃなくて秀吉の思い付きだった
案外深い官兵衛と宇喜多直家の関係
官兵衛、安国寺恵瓊を叱るの書状
官兵衛の土牢生活とは関係がなかった、しかも裏紋の黒田藤巴
官兵衛ではなかった高松城水攻案
高松城水攻めは官兵衛じゃなくて秀吉の思い付きだった
案外深い官兵衛と宇喜多直家の関係
Posted by Frco.Don at 11:02│Comments(0)
│シメオン官兵衛孝高