2024年02月12日
初春令月、風和ぎ梅咲く旧暦元日」jrと渡船を乗り継ぎ.香椎・宇美・志賀海三社詣
令和6年2月10日(土)7:30 香椎宮楼門前に集合。かなり早い!
天平二年正月、帥・大伴旅人邸での詠歌をまとめた、万葉集巻五・梅花宴三十首の詞書に「時に初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き」とあります。元号令和の出典でもありますが、ここにあるように正月は梅花開く頃でした。梅ほころぶ旧暦正月・元日2月10日にJRうみなか線と福岡市営渡船を乗り継いでの香椎宮・宇美八幡宮・志賀海神社三社詣でした、、
香椎宮、、
本殿へお参りする前に、御田祖、大伴武以大連を祭神に祭る摂社・早辻神社へ。天平二年730二月、大伴旅人帥着任二年後に、武以大連末裔・大伴国綱が香椎宮司に着任。(『太宰管内志』筑前之九・糟屋郡上)。旅人が帥にあるあいだ香椎宮は大伴が祭祀をつとめる。旅人室・大伴郎女、妹・坂上郎女なども。のち大伴は、伴、そして御田と苗字を変える、、
鶏石神社と勅使来迎標石
鶏石神社は『古事記』天岩門開き段に出てくる常世の長鳴鳥が祭神。創建は、福岡藩が奨励した養鶏をおこなう農家の組合か仲卸業者によるものと思う。
勅使を迎えたときの待機場をしめす標石は、御休息所・御手水所・御祓所・御脱剣所・衛士居所の五つが境内に建つ。 画像は拝殿へ昇る石段下の御手水所を示す標石
ぐるりと周り、御神木・綾杉正面へ、、
神功皇后にまつわる伝説はそこそこに、綾杉前では大宰帥、筑前守はじめ九州へ下る役官が、着任報告の参拝に際して宮司から「綾杉挿頭」を授かることについて、、、
【綾杉挿頭・史料】
「筑紫の国に到れば、例に先ず架襲の、宮に参謁づ、架襲は可紫比なり」
『筑前国風土記逸文』仁和寺本『萬葉集註釋』卷第四,六九五七番歌條
隆家卿大宰帥に二たひなりて後のたひ、香椎御社にまいりたりけるに、神主こと
のもとゝて、杉のはをおりて、帥かうふりにさすとて、よめる。 神主 大膳武忠
ちはやふる かしゐの宮の 杉の葉を 二たひかさす わが君そきみ
『金葉和歌集』藤原隆家 帥任期 長和三年1014〜寛仁三年1020/長暦元年1037〜長久三年1042
筑前国にて、香椎宮の祭の日、梅花をさしてよめる、国の例にて、冬は杉をさして、前の守も必ず歌よめる
年ごとに 匂いまされる 梅の花 おなし色にて すきをかさゝむ
源道済 長和四年(1015)大宰少弐着官『源道済集』
本殿へ、、
去年遷宮を終えて、本殿はピカピカ。香椎廟と称されたこと。廟は大陸風に墳墓指すこと。神明造りは神宮他、八幡造りは宇佐神宮他、住吉造りは摂津住吉社・筑前住吉社ほか、全国に見られるが、正面方向と別に本殿左右に破風をもつ香椎造りは、ここ香椎宮が唯一だということ、など。大陸風に廟と称されたこととあわせて、外国使節の来招時、最初に迎える施設として特殊な造りを誇ってのことかとおもわれる。
福岡藩七代継高寄進の鳥居をくぐり、仲哀天皇古宮跡へ、、
香椎という地名については、住吉大神が神功皇后の口を借りて放たれた「一道にゆけ」という呪詞により、身罷った仲哀天皇の遺体を収めた樫の棺が香ったところからという俗説がある。一方、香椎、また粕屋は、古代朝鮮語で首都をいう「カシヒ」だという説があることを説明
また、聖武天皇即位同年、神亀元年724の香椎宮の創建は、朝廷による神社統制政策の仕上げであった。以後、志賀海神社は香椎宮傘下として管理される。香椎宮の春秋の大祭には、志賀島の海人たちは香椎宮へ贄物を献上し舞を奉納。その衣装が古びれば、官費の拠出がおこなわれた。現在でも大祭には志賀海神社から使者がたつ。その関係は、神社統制政策が進んでいく過程の証、、
表境内の弁財天祠により、JR香椎神宮駅へ8:57発宇美行き乗車。宇美駅9:27着
宇美八幡宮奥宮・胞衣ヶ浦へ
奥宮・胞衣ヶ浦への途中、宇美川にかかる橋。東の空を望むと、若杉山と砥石山の間にショウケ越。その向こうには穂波・大分八幡宮、そして田川・香春神社、更に東には宇佐八幡宮。博多湾に面した筥崎八幡宮から、宇美八幡宮、大分八幡宮、香春神社、宇佐八幡宮と東西一線上に鉄の神でもある八幡神がならぶ(香春社も八幡社系)
胞衣ヶ浦は、神功皇后、応神天皇出産の際の胞衣を埋めたとされる聖地。安産を願い、ここに積まれた石を持ち帰り、出産後にはお礼参りとともに石を戻す
八幡宮map
宇美八幡本宮へ、ウメも開く
自由時間。境内宇美八幡茶屋で子安餅・境内外の酒蔵「萬代」。宇美町立歴史民俗資料館もよい、、、
楠のウロにふくろうの子が入るのは夏、、、
11:35JR宇美駅発香椎行き →12:05香椎着 →乗り換え→12:09発.西戸崎行き→12:29JR西戸崎着 →乗り換え→12:45西戸崎発市営渡船→13:00志賀島着
志賀海神社参道半ばの、御旅所・宮司宅.矢場
御旅所は秋の国土祭りで、二年に一度、神輿が巡幸。細男の舞が奉納される。宮司邸横の矢場は、現在、仮のもの。本来、高校の弓道部が持つような矢場がある
禊の瀬と、立花山を望む遠景
夏でも真冬でも、志賀海神社の神事は、ここで神職が禊をおこなうところからはじまる。遠景の立花山は、少なくとも、磐井の時代まで遡り、イザナギ・イザナミの磐座としての呼称「二神山」と呼ばれていた。そして海の中道を介して、イザナギ御子神・綿津見神が志賀島に鎮座する。立花山・海の中道・志賀島に渡る、海・空・山野はイザナギ神話の空間、、、
参道のウメと本殿前
今宮社と勝馬表津宮と本殿・綿津見神
今宮社の祭神は「故、阿曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり」とある、宇都志日金拆命。今宮社は、本殿に対して今宮ではなく、かつて志賀海社が鎮座した故地という志賀島北岸の勝馬にある表津宮に対して今宮。つまり今宮社にたいして、表津宮が古社。この位置的関係は、天智・天武朝の頃から始められた神社の統制政策の過程を残しているのではと推測される。本来、阿曇は宇都志日金拆命を祖神として祭っていたが、同神格上位に綿津見神が配置されることにより、全国的な統制の枠のなかに組み入れられた、と、、、
表津宮
と、いうわけで解散。志賀海神社参道「和カフェ」で食事、、、
おつかれ様でございました、、、、、
次回予告、、
天平二年正月、帥・大伴旅人邸での詠歌をまとめた、万葉集巻五・梅花宴三十首の詞書に「時に初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き」とあります。元号令和の出典でもありますが、ここにあるように正月は梅花開く頃でした。梅ほころぶ旧暦正月・元日2月10日にJRうみなか線と福岡市営渡船を乗り継いでの香椎宮・宇美八幡宮・志賀海神社三社詣でした、、
香椎宮、、
本殿へお参りする前に、御田祖、大伴武以大連を祭神に祭る摂社・早辻神社へ。天平二年730二月、大伴旅人帥着任二年後に、武以大連末裔・大伴国綱が香椎宮司に着任。(『太宰管内志』筑前之九・糟屋郡上)。旅人が帥にあるあいだ香椎宮は大伴が祭祀をつとめる。旅人室・大伴郎女、妹・坂上郎女なども。のち大伴は、伴、そして御田と苗字を変える、、
鶏石神社と勅使来迎標石
鶏石神社は『古事記』天岩門開き段に出てくる常世の長鳴鳥が祭神。創建は、福岡藩が奨励した養鶏をおこなう農家の組合か仲卸業者によるものと思う。
勅使を迎えたときの待機場をしめす標石は、御休息所・御手水所・御祓所・御脱剣所・衛士居所の五つが境内に建つ。 画像は拝殿へ昇る石段下の御手水所を示す標石
ぐるりと周り、御神木・綾杉正面へ、、
神功皇后にまつわる伝説はそこそこに、綾杉前では大宰帥、筑前守はじめ九州へ下る役官が、着任報告の参拝に際して宮司から「綾杉挿頭」を授かることについて、、、
【綾杉挿頭・史料】
「筑紫の国に到れば、例に先ず架襲の、宮に参謁づ、架襲は可紫比なり」
『筑前国風土記逸文』仁和寺本『萬葉集註釋』卷第四,六九五七番歌條
隆家卿大宰帥に二たひなりて後のたひ、香椎御社にまいりたりけるに、神主こと
のもとゝて、杉のはをおりて、帥かうふりにさすとて、よめる。 神主 大膳武忠
ちはやふる かしゐの宮の 杉の葉を 二たひかさす わが君そきみ
『金葉和歌集』藤原隆家 帥任期 長和三年1014〜寛仁三年1020/長暦元年1037〜長久三年1042
筑前国にて、香椎宮の祭の日、梅花をさしてよめる、国の例にて、冬は杉をさして、前の守も必ず歌よめる
年ごとに 匂いまされる 梅の花 おなし色にて すきをかさゝむ
源道済 長和四年(1015)大宰少弐着官『源道済集』
本殿へ、、
去年遷宮を終えて、本殿はピカピカ。香椎廟と称されたこと。廟は大陸風に墳墓指すこと。神明造りは神宮他、八幡造りは宇佐神宮他、住吉造りは摂津住吉社・筑前住吉社ほか、全国に見られるが、正面方向と別に本殿左右に破風をもつ香椎造りは、ここ香椎宮が唯一だということ、など。大陸風に廟と称されたこととあわせて、外国使節の来招時、最初に迎える施設として特殊な造りを誇ってのことかとおもわれる。
福岡藩七代継高寄進の鳥居をくぐり、仲哀天皇古宮跡へ、、
香椎という地名については、住吉大神が神功皇后の口を借りて放たれた「一道にゆけ」という呪詞により、身罷った仲哀天皇の遺体を収めた樫の棺が香ったところからという俗説がある。一方、香椎、また粕屋は、古代朝鮮語で首都をいう「カシヒ」だという説があることを説明
また、聖武天皇即位同年、神亀元年724の香椎宮の創建は、朝廷による神社統制政策の仕上げであった。以後、志賀海神社は香椎宮傘下として管理される。香椎宮の春秋の大祭には、志賀島の海人たちは香椎宮へ贄物を献上し舞を奉納。その衣装が古びれば、官費の拠出がおこなわれた。現在でも大祭には志賀海神社から使者がたつ。その関係は、神社統制政策が進んでいく過程の証、、
表境内の弁財天祠により、JR香椎神宮駅へ8:57発宇美行き乗車。宇美駅9:27着
宇美八幡宮奥宮・胞衣ヶ浦へ
奥宮・胞衣ヶ浦への途中、宇美川にかかる橋。東の空を望むと、若杉山と砥石山の間にショウケ越。その向こうには穂波・大分八幡宮、そして田川・香春神社、更に東には宇佐八幡宮。博多湾に面した筥崎八幡宮から、宇美八幡宮、大分八幡宮、香春神社、宇佐八幡宮と東西一線上に鉄の神でもある八幡神がならぶ(香春社も八幡社系)
胞衣ヶ浦は、神功皇后、応神天皇出産の際の胞衣を埋めたとされる聖地。安産を願い、ここに積まれた石を持ち帰り、出産後にはお礼参りとともに石を戻す
八幡宮map
宇美八幡本宮へ、ウメも開く
自由時間。境内宇美八幡茶屋で子安餅・境内外の酒蔵「萬代」。宇美町立歴史民俗資料館もよい、、、
楠のウロにふくろうの子が入るのは夏、、、
11:35JR宇美駅発香椎行き →12:05香椎着 →乗り換え→12:09発.西戸崎行き→12:29JR西戸崎着 →乗り換え→12:45西戸崎発市営渡船→13:00志賀島着
志賀海神社参道半ばの、御旅所・宮司宅.矢場
御旅所は秋の国土祭りで、二年に一度、神輿が巡幸。細男の舞が奉納される。宮司邸横の矢場は、現在、仮のもの。本来、高校の弓道部が持つような矢場がある
禊の瀬と、立花山を望む遠景
夏でも真冬でも、志賀海神社の神事は、ここで神職が禊をおこなうところからはじまる。遠景の立花山は、少なくとも、磐井の時代まで遡り、イザナギ・イザナミの磐座としての呼称「二神山」と呼ばれていた。そして海の中道を介して、イザナギ御子神・綿津見神が志賀島に鎮座する。立花山・海の中道・志賀島に渡る、海・空・山野はイザナギ神話の空間、、、
参道のウメと本殿前
今宮社と勝馬表津宮と本殿・綿津見神
今宮社の祭神は「故、阿曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり」とある、宇都志日金拆命。今宮社は、本殿に対して今宮ではなく、かつて志賀海社が鎮座した故地という志賀島北岸の勝馬にある表津宮に対して今宮。つまり今宮社にたいして、表津宮が古社。この位置的関係は、天智・天武朝の頃から始められた神社の統制政策の過程を残しているのではと推測される。本来、阿曇は宇都志日金拆命を祖神として祭っていたが、同神格上位に綿津見神が配置されることにより、全国的な統制の枠のなかに組み入れられた、と、、、
表津宮
と、いうわけで解散。志賀海神社参道「和カフェ」で食事、、、
おつかれ様でございました、、、、、
次回予告、、
福岡城ウメ園・大濠日本庭園散策と利休の菓子「ふの焼」お茶 と〜教室「宗湛日記」中の利休を読む〜
9月17日:旧暦8月15日・十五夜「香椎浜・香椎宮御島神社例祭」
能古島.檀一雄・曻地三郎・万葉、句碑・歌碑巡りと能古博物館de「黒田官兵衛の水軍」の話
サクラの名島・福岡城,老松花見弁当付き・教室「名島城・福岡城の歴史」
ウメの福岡城歴史遠足と教室「福岡城命名3つの異説」
冬の海に舞う海幸・山幸末裔.志賀海神社歩射祭神事、胴結舞.勝馬詣.汐掻き/昼:那国御膳
9月17日:旧暦8月15日・十五夜「香椎浜・香椎宮御島神社例祭」
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ウメの福岡城歴史遠足と教室「福岡城命名3つの異説」
冬の海に舞う海幸・山幸末裔.志賀海神社歩射祭神事、胴結舞.勝馬詣.汐掻き/昼:那国御膳
Posted by Frco.Don at 19:03│Comments(0)
│歴史遠足・講演報告