2014年06月24日
官兵衛の孫は荒木村重のおいっ子に馬術を習っていた!
官兵衛の孫は荒木村重のおいっ子に馬術を習っていた!【軍師・黒田官兵衛百物語38話】
軍師・黒田官兵衛百物語
前回、長政は意外にも乗馬が得意ではなかったと言う話しにつづけて、今日は、官兵衛の
愛馬は凶事をもたらす凶相だったという、江戸時代中期に成立した逸話集「常山紀談」にあ
る話しを紹介します。
●官兵衛はクリスチャンだから迷信を信じない?
ウマは体のあちらこちらに旋毛(つむじ)を見せていることがあるのですが、特に、頭部に旋
毛があるのは凶相だという迷信が古くはありました。官兵衛が乗っていたウマがまさに、そ
れだったのです。
しかし、官兵衛は、そのことについて人から聞かれると、「人間は万物の霊長だという、その
人間の運がウマの毛並みなどに左右されるものではない」と答えていたといいます。
「万物の霊長」という語は、中国の古典「書経」にあるものですが、迷信を気にしない官兵衛
のこうした姿勢は、キリスト教への信仰と関わりがあったものかもしれません。
人間以外の生物に霊性を認めないという、キリスト教の教理を根拠にしたもののように思わ
れます。
●家康がほめた孫の馬術
さて、変って官兵衛の孫・忠之、のちの福岡藩二代は乗馬の名手だったという話しがありま
す。
忠之は、14歳になった元和元年(1615)に、京都で、徳川家康と将軍秀忠に馬術を披露す
るということがありました。
この時、家康は忠之の見事な手綱さばきに感心し、誰に習ったのかと聞きます。
忠之の馬術の師は、信長に対して反旗を翻した際に、官兵衛を有岡城の土牢に幽閉のし
た荒木村重の甥にあたる、荒木十左衛門元満でした。
元満は村重の信長に対する謀反には加担しなかったものの、あおりを喰う形で父親と共に
浪人していたところを、縁があって黒田家に拾われ家臣となっていたのです。
その後、元満は、家康に請われて徳川直臣となります。
忠之を乗馬の名手に育てた技量を家康から買われたわけです。
江戸時代初期。現代などよりも、人材の流通がずっと自由に行われていたようです。

軍師・黒田官兵衛百物語
前回、長政は意外にも乗馬が得意ではなかったと言う話しにつづけて、今日は、官兵衛の
愛馬は凶事をもたらす凶相だったという、江戸時代中期に成立した逸話集「常山紀談」にあ
る話しを紹介します。
●官兵衛はクリスチャンだから迷信を信じない?
ウマは体のあちらこちらに旋毛(つむじ)を見せていることがあるのですが、特に、頭部に旋
毛があるのは凶相だという迷信が古くはありました。官兵衛が乗っていたウマがまさに、そ
れだったのです。
しかし、官兵衛は、そのことについて人から聞かれると、「人間は万物の霊長だという、その
人間の運がウマの毛並みなどに左右されるものではない」と答えていたといいます。
「万物の霊長」という語は、中国の古典「書経」にあるものですが、迷信を気にしない官兵衛
のこうした姿勢は、キリスト教への信仰と関わりがあったものかもしれません。
人間以外の生物に霊性を認めないという、キリスト教の教理を根拠にしたもののように思わ
れます。
●家康がほめた孫の馬術
さて、変って官兵衛の孫・忠之、のちの福岡藩二代は乗馬の名手だったという話しがありま
す。
忠之は、14歳になった元和元年(1615)に、京都で、徳川家康と将軍秀忠に馬術を披露す
るということがありました。
この時、家康は忠之の見事な手綱さばきに感心し、誰に習ったのかと聞きます。
忠之の馬術の師は、信長に対して反旗を翻した際に、官兵衛を有岡城の土牢に幽閉のし
た荒木村重の甥にあたる、荒木十左衛門元満でした。
元満は村重の信長に対する謀反には加担しなかったものの、あおりを喰う形で父親と共に
浪人していたところを、縁があって黒田家に拾われ家臣となっていたのです。
その後、元満は、家康に請われて徳川直臣となります。
忠之を乗馬の名手に育てた技量を家康から買われたわけです。
江戸時代初期。現代などよりも、人材の流通がずっと自由に行われていたようです。
