2013年09月08日
黒田官兵衛・長政父子、福岡入府の経緯・いきさつ
▶▷黒田官兵衛・長政父子、福岡入府経緯
※画像は伝官兵衛使用の合子形兜
(ごうすなりかぶと)
天正14年の島津征討で活躍した黒田官兵衛
は、恩賞として豊後中津藩12万石(18万
石とも)を秀吉から拝領します。翌年の15
年5月に秀吉自らの九州下向、島津氏が薩摩
まで押し戻されることで、この島津征討戦は
終結をみます。
秀吉は、その際、薩摩からの凱旋途上に、博多箱崎浜の筥崎宮に陣を張り、6月
の間、約20日を過ごします。
この間、秀吉軍として九州に集結していた諸大名の兵、約18万が博多を取り巻
く浜に溢れていたといいます。
20日の滞在の間、秀吉は千利休などの世を代表する茶人達や、当代随一の歌人
といわれた細川幽斎を丹後からを博多に呼び寄せるなどして、毎日のように茶会
や歌会を設ける一方、官兵衛に命じて、戦乱で荒廃した博多の町の復興事業を進
めます。
余談ですが、この時に行われた、秀吉が食べることになる、或る茶会の茶菓子を
用意した菓子屋(当時、菓子屋があったという話し自体、歴史的には誤りなので
すが)はどこであったかという論争が、現代の博多の菓子屋のなかであります。
さて、その後の関ヶ原の合戦の末、官兵衛の息子・黒田長政が筑前福岡藩52万
石を拝領することになるのですが、この時は、そうしたことになる、その後の筑
前博多との縁について予想もせずに復興事業に官兵衛は尽力したと思われます。
時代は、秀吉による小田原北条氏攻略、朝鮮出兵(博多は重要な兵站基地の役割
を担いました)、秀吉の死、関ヶ原の合戦後の徳川政権の成立と、進みます。
関ヶ原合戦後、先きにふれたように官兵衛の息子・長政は筑前52万石を拝領し
ます。黒田氏は豊前中津12万石から、3倍の加増を受け、大大名となったわけ
です。この加増は、わずか一日で東軍・徳川方勝利という形で雌雄を決すること
になる関ヶ原の合戦での、最大の功労者は黒田長政だとの家康の評価によるもの
です。
一方、関ヶ原合戦時の父・官兵衛は九州にあって、豊前中津を進発、北部九州を
回り、肥後、薩摩へと西軍・石田方に付いた諸大名の本拠を襲い、九州のほぼ全
域を制圧するという働きを行っています。官兵衛の、この動きについては、息子
・長政の家康への忠誠一方の動きとは異なる存念があってのことともされていま
す。
52万五石の大名としての筑前入府時、官兵衛は既に隠居し如水と言う法号を名
乗っていたことから、黒田氏では官兵衛を藩祖と呼び、長政が初代藩主となった
のでした。
軍師黒田官兵衛を学んで語る Facebook 趣味活講座
福岡市教育委員会/NHK福岡放送局後援
http://www.city.fukuoka.lg.jp/events/evt40083.html

※画像は伝官兵衛使用の合子形兜
(ごうすなりかぶと)
天正14年の島津征討で活躍した黒田官兵衛
は、恩賞として豊後中津藩12万石(18万
石とも)を秀吉から拝領します。翌年の15
年5月に秀吉自らの九州下向、島津氏が薩摩
まで押し戻されることで、この島津征討戦は
終結をみます。
秀吉は、その際、薩摩からの凱旋途上に、博多箱崎浜の筥崎宮に陣を張り、6月
の間、約20日を過ごします。
この間、秀吉軍として九州に集結していた諸大名の兵、約18万が博多を取り巻
く浜に溢れていたといいます。
20日の滞在の間、秀吉は千利休などの世を代表する茶人達や、当代随一の歌人
といわれた細川幽斎を丹後からを博多に呼び寄せるなどして、毎日のように茶会
や歌会を設ける一方、官兵衛に命じて、戦乱で荒廃した博多の町の復興事業を進
めます。
余談ですが、この時に行われた、秀吉が食べることになる、或る茶会の茶菓子を
用意した菓子屋(当時、菓子屋があったという話し自体、歴史的には誤りなので
すが)はどこであったかという論争が、現代の博多の菓子屋のなかであります。
さて、その後の関ヶ原の合戦の末、官兵衛の息子・黒田長政が筑前福岡藩52万
石を拝領することになるのですが、この時は、そうしたことになる、その後の筑
前博多との縁について予想もせずに復興事業に官兵衛は尽力したと思われます。
時代は、秀吉による小田原北条氏攻略、朝鮮出兵(博多は重要な兵站基地の役割
を担いました)、秀吉の死、関ヶ原の合戦後の徳川政権の成立と、進みます。
関ヶ原合戦後、先きにふれたように官兵衛の息子・長政は筑前52万石を拝領し
ます。黒田氏は豊前中津12万石から、3倍の加増を受け、大大名となったわけ
です。この加増は、わずか一日で東軍・徳川方勝利という形で雌雄を決すること
になる関ヶ原の合戦での、最大の功労者は黒田長政だとの家康の評価によるもの
です。
一方、関ヶ原合戦時の父・官兵衛は九州にあって、豊前中津を進発、北部九州を
回り、肥後、薩摩へと西軍・石田方に付いた諸大名の本拠を襲い、九州のほぼ全
域を制圧するという働きを行っています。官兵衛の、この動きについては、息子
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す。
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乗っていたことから、黒田氏では官兵衛を藩祖と呼び、長政が初代藩主となった
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職隆墓石と重隆・明石女墓誌と孝高、重隆子・職隆養子説
島津征討・九州平定戦の黒田官兵衛と宗像一門「小倉攻め」
官兵衛、安国寺恵瓊を叱るの書状
官兵衛の土牢生活とは関係がなかった、しかも裏紋の黒田藤巴
官兵衛ではなかった高松城水攻案
高松城水攻めは官兵衛じゃなくて秀吉の思い付きだった
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官兵衛ではなかった高松城水攻案
高松城水攻めは官兵衛じゃなくて秀吉の思い付きだった
Posted by Frco.Don at 05:31│Comments(0)
│シメオン官兵衛孝高