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Frco.Don
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競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2023年10月06日

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足

令和5年9月29日(金)旧暦8月15日大潮.快晴/テーマ:jr香椎神宮駅から、香椎宮御島神社例祭までを、大伴旅人の影を慕う
香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
13:00jr香椎神宮駅前を出発。紅の爺イ本人も含めて13名。香椎台を御飯ノ山城跡(香椎台御飯の山公園)へ

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【御飯ノ山城跡(香椎台御飯の山公園)・二神神社跡】槙の巨木の根もとに「山神」碑が樹つ。磐井征討後、糟谷屯倉の管理者として九州へ下向した物部傘下の舂米家祭祀した社なのだそうな

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【御飯ノ山城復元模型】→御飯ノ山城跡(香椎台御飯の山公園)北側に設置される御飯ノ山城復元模型前。御飯ノ山城は、立花支城。天正十四年1586・27代香椎大宮司氏続14歳は、島津侵攻で立花城にこもる主立花宗茂とともに、御飯ノ山にこもるのです

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
左.御ノ山城跡測量図・調査中の御ノ山城主郭部分(香椎B遺跡調査報告書「御飯山城」)より

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【不老水・御飯ノ水】不老水は衣装替え中。貝原益軒は『筑前国続風土記』中に不老水を「御飯ノ水」と紹介。香椎宮新饌を用意するための井戸としての名称だといいます。現在は、香椎台の住宅地にかわってしまった御飯ノ山。かつて新饌を準備する井戸の水源の山として、信仰の対象としてあったのかもしれない。二神神社跡の存在ともに古代の祭祀が匂いたちます

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【報恩寺】報恩寺は二度目の渡宋をおえ、帰国した栄西による開山。本堂右手に茂る菩提樹は、栄西により初めて日本へ移植された故事によるもの。益軒が『筑前国続風土記』でまったく跡形をとどめないとする報恩寺を、昭和六年1930.聖福寺塔頭・円覚寺17代猷山自誡道士が再建・伽藍を復興されました。

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【古宮跡】香椎宮古宮跡は、古事記中に語られる、住吉神の託宣に逆らい「一道にゆけ」と死の呪文を仲哀天皇がうけることになる沙庭。「仲哀天皇大本営御旧跡」碑が建ち、仲哀天皇の棺を掛けたという樫の神木が真垣に繁る。棺を掛けたという故事は『筑前国続風土記』にのみある話。天皇の棺を野外に基台をくみ安置して弔う、殯〔もがり〕の習俗をいうのかもしれない。加藤一純『筑前国続風土記付録』「香椎宮図」には、御飯ノ山城跡(香椎台御飯の山公園)が「一万田弾正城跡」として右上に描かれる。視線を下へと移すと、表題として「香椎宮」の文字が記され、「不老水」。そして「古宮樫木」と記し、樫の神木が描かれる。その左、東側に「古宮大明神」とあり古宮跡が描かれる。現在、神木は古宮跡境内東側に繁る。「香椎宮図」では逆の西側、川の流れを渡り境外らしいところに描かれています。

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【浜鳥居】→古宮跡を結界する方向で建つ、香椎宮東側の「浜鳥居」。「筑前国主従四位下左近衛大将源朝臣継高」と銘がある。継高は福岡藩七代・黒田継高。宝暦二年の寄進。当時は浜辺だった、現在のJR鹿児島本線・勅使道踏切の位置に建っていた。明治二二年1889九州鉄道開設に伴い、古宮前の現在地へ移設。踏切から参道50m南側の鳥居は移設された「浜鳥居」の後継

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【香椎宮本殿・香椎造り】→香椎宮本殿は「香椎造り」と特別に称されて、左右に破風をもつ。伊勢神宮の神明造りなど他の神社建築の様式とは異なる唯一の造形。香椎宮は、古事記、また万葉集中への記述からはじまり平安末期まで「香椎廟」と表記された。「廟」は中国におけるで墓所を意味する。渡来した外国使節がはじめて目にすることになる宗教施設であるため、外国風に呼称したかと思われます。その建築様式についても、伝統的な和様式を敢えて崩す冒険をこころみが試されたのかもしれません

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
→ここですでに、時間は14:30。社務所に問い合わせると、御島神社例祭奉仕部隊は、早くも、御島神社が浮かぶ香椎浜に移動、お祭りの準備に入っているとのこと。御島神社がのる岩礁に渡ることができる時間、15:00過ぎの干潮を前に早めにでたという。主催の清田は痛恨の時間配分ミス。「綾杉」以下、予定の街歩きコースを省略。あわてて14:50の香椎浜方面バスに香椎宮前バス停から全員で乗車。バスを待つ時間いいわけの清田の巻、、。以下、「綾杉」・「標石」・「早辻神社」・「貞明皇后行啓碑」・「香椎潟三首・万葉碑」・「香椎宮御旅所」・「浜男神社」は街歩き省略点

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【綾杉】→神功皇后は、若杉山(分杉山)の杉の若枝を手折り身に挿し三韓征伐に。凱旋後も杉は若々しくこれを植えられたという。現在、香椎宮神木「綾杉」とされ本殿前に繁るわけです。香椎宮創建は、この綾杉に神功皇后が降り、託宣を述べられたことによるとされます(『香椎宮編年記』)。また、太宰府への役官就任の際には香椎宮への参拝と綾杉の簪をうける習慣がありました(『筑前国風土記逸文』仁和寺本『萬葉集註釋』卷第四,六九五七番歌條/ 『金葉和歌集』藤原隆家 長和三年1014・長暦元年1037、二度の帥任官を祝う香椎大宮司・大膳武忠歌/『源道済集』源道済 長和四年1015大宰少弐任官歌)※画像は綾杉前で拝礼する流鏑馬騎手三騎(平成二四年秋季大祭)

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【勅使・太宰帥.標石】→香椎宮境内には画像の勅使館前ほか、勅使、太宰帥の参拝儀式の待機場所を示す標石。御休息所・御手水所・御祓所・御脱剣所・衛士居所と五つが示されている。10年に一度迎える勅使も、大伴旅人も帥任官の神亀五年728には標石に従い参拝した

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
→綾杉右手の小山に鎮座する香椎宮境内末社・早辻神社は大伴祖を祀る社。旅人帥着任二年後の天平二年730.一族の大伴友綱が香椎廟司に着任。大伴祖・道臣は、神武東征時、武臣として、また祀官として供奉した。大伴の家は武官にして祭祀の家。
「その年の神亀五年十一月には、香椎廟の祭祀(秋祭)がおこなわれる。そこで坂上郎女が新たな巌姫の役割を果たした、ほぼ確実であろう。かくして、神亀五年の夏のうちには、坂上郎女は太宰帥の家の人となっただろう」(『万葉集歌群構造論』渡瀬昌忠著作集 第八巻 〜 大伴坂上郎女(序説)太宰帥の家p378)「大伴坂上郎女は、旅人の妻大伴郎女に次いで、巌姫役についた」(山本健吉『大伴家持』p15)と、渡瀬昌忠と山本健吉は、旅人妻・大伴郎女、妹・坂上郎女が香椎宮の祭祀にかかわったと推測する

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
香椎宮心字池の太鼓橋を渡られる貞明皇后

【貞明皇后行啓碑】→大正十年1921、20歳の裕仁皇太子(昭和天皇)が欧州5ヶ国の親善訪問に発つにさいして母后・貞明皇后は香椎宮に発遣し、その無事を祈願された。皇太子が無事帰国されると、翌大正十一年1922.3月、香椎宮へお礼の行啓をおこなわれる。これを記念した、貞明皇后行啓記念碑が香椎宮参道むかえに建つ。なお、参道のクス並木は、皇后行啓を記念して有志により植樹されたものです。各クスの寄進者名が記された地図が香椎宮につたわります

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
香椎潟三首・万葉歌碑】→google map切り抜きに描いた青いラインより左側、「海」「海」「海」と書き入れた部分は海でした。香椎潟万葉歌碑が建つ小高い丘は海に面していたわけです。歌碑手跡は三条実美。三首は以下、、、

冬の十一月に、大宰の官人等、香椎の廟を拝みまつることを訖りて、退り帰る時に、馬を香椎の浦に駐めて、
おのもおのも懐を述べて作る歌 万葉集 巻六・九五七

いざ子ども 香椎の潟に 白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ 大伴旅人
時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈てな  小野老
往き還り 常にわが見し 香椎潟 明日ゆ後には 見む縁も無し 宇努首男人

詞書にある「香椎の廟を拝みまつる」とは、いつもよく見た香椎潟を明日以後、もう、見ることもないと歌う、宇努首男人〔うぬのおびとおひと〕が京都へ帰還する報告の参拝をいうかと推測されます。旅人と小野老は、大宰府の長官・帥と副官・太宰大弐の立場で連れ立ったのでした。旅人の九州下向は二度目。一度目は十年前の養老四年720でした。九州南部での反乱を慰撫するために征隼人持節大将軍という軍事貴族としての肩書きでの下向でした。男人はその際の副官。旅人は乱平定後、帰洛しますが、男人はその後の軍務上の処理があったのでしょうか、九州にのこっていたということです。そして、二度目の下向で旅人が太宰帥に任官すると、いれかわりで、帰洛うることになり、離任の報告を香椎宮へおこなったというわけです。なお、放生会はこの旅人による隼人征討後、犠牲者の鎮魂を目的にはじまります。

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
香椎潟・万葉歌碑

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【頓宮】→万葉碑の奥には、google map切り抜きに示すように、香椎宮例大祭の日に神輿がくだる頓宮が鎮座します。『筑前国続風土記』巻之十九糟屋郡裏 は頓宮について「九月九日の御祭には、神輿を濱男の頓宮に御幸成し奉り、管弦等の音楽を奏す。十日には、大宮司職の人、明神の御使として、頓宮より、原上村香椎の隣村也。におはします。川上大明神に詣て豊玉姫の社也拝をなし奉る。此時大宮司職の者の居住せし宅を神后屋敷と号して、今に原上に在。土民は恐れて其宅に居住せず。十一日には三苫村の龍王社海神の社なり。に参りて拝す。是皆海神なれば三韓退治の時、保護の恩徳をむくわせ給ふ儀式ならし。此間三日、頓宮にとゞまりおはしまし十一日に還御有。此礼、今は絶はて、頓宮も無く成ぬ。唯昔の跡迚は、頓宮の礎のみ鳥居の傍に残れり。又此春秋の御祭には、箱崎の海人ども、四十八尾の紅魚(たい)を御贄にそなえ奉りしとかや。三代実録を考へ侍るに、此御社毎年春秋の祭日に、志賀島の泉郎(あま)男十人、女十人、風俗の楽を奏しけるとぞ。此祭の時、泉郎の着る所の衣冠を、宝亀十年一年に、太宰大弐正四位上佐伯宿禰、今毛人作らせ置かれけるが、ふるびぬる故、貞観十六年に、太宰府より府庫の物を以、是を改め作ん事を乞けるに、同十八年正月廿五日、太政官より其請所に任せらるゝ由、三代実録に記せり」とあり、香椎宮神輿巡行は、立花山の新宮側・川上神社や、龍王社海神、現三苫綿津見神社、筥崎・志賀島の海人もかかわる広範なお祭りであったことがわかります。また、香椎宮の創建により、志賀海神社など、地方氏族の社が大和政権の宗教政策の下に統制されていく過程の残滓をすくいあげてくれる情報でもあります。

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
香椎潟の入江に面して、左・西側から頓宮・浜鳥居・浜男大明神・御島を描く『筑前国続風土記付録』・「香椎宮」図一部

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
【浜男神社】浜男神社は、かつて香椎潟、現在の香椎浜に面して鎮座し、沖合に浮かぶ御島神社の遥拝所だろうといわれています。その名称から、あるいは、志賀島の海神・安曇磯良やエビス信仰が混交した社なのかもしれません。

【香椎宮・香椎浜御島神社例祭】→香椎宮前バス停から慌てて西鉄バスに乗ってもらい、約7分。香椎浜車庫・片男佐橋手前で降りてもらい香椎浜北公園へ突進!大潮干潮時で干潟をみせる香椎浜に浮かぶ御島神社を眺めると、神職による祝詞奏上がはじまっている様子。皆さんリュックに担いできた長靴を取り出すと急いで浜へ、、、

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
ようやく対岸・香椎浜北公園へ

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
干潟が顔を出し、御島への道が、、、

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
御島の周りを、人が、、


長靴に履き替えて、急ぎ、浜渡り、、

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
神職、空をあおいで大きく奉拝、、

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
御神饌、、


今年の御島例祭は龍笛が空に響く、、

香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足
神事が終わり、みなさま香椎浜北公園に集合。御島が神功皇后三韓征伐出陣の地、また、出陣に際して海水にさらした髪の毛が、自然に美豆良に結ばれれば、征旅に幸がもたらされるという占い・誓約〔うけい〕をおこなったと古事記にある伝説の地なのです、など、冷たいものなどを口にしながらご説明。皆様、お疲れさまでございました、、
                        
香椎宮.大伴旅人.御島神社例祭・歴史遠足  レジュメ










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