QRコード
QRCODE
インフォメーション

アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
Frco.Don
Frco.Don
競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2023年10月17日

講演「慶長5年筑前入部の長政と二代忠之の神社分祠・遷座・創建のワケ」縮刷版

令和5年9月29日(土)於:アクア博多ビルC会議
産土として、防衛施設として、徳川幕政への忖度としての神社

【下照姫神社・吉聖女社】
下照姫神社は江戸時代、吉聖女社とよばれた。主祭神は下照姫(大国主命・多岐都姫の子)。相殿には、玉津島明神(衣通姫.允恭天皇子)・味耜高彦根(下照姫兄)。
博多南西部に新たに建設された「瓦町」に入植することになる黒田系商人の産土神。また博多南堀(房州堀)の整備、御笠川左岸への寺院の配置(下図参照)に合わせて、那珂川が交わる南西角地への守り、藩兵駐屯空間として、黒田長政は同社を遷座させたと考えられる。長政による遷座の以前、吉聖女社旧鎮座地「吉聖天の森」については謎だといわれるが、那珂川、または南堀をわたりすぐの辺り、現在地(博多区祇園町8-8)からそう遠くない場所だったと推測される。また下照姫神社・吉聖女社を吉翔天社と表記する例があるが吉聖女社が正しい。(『石城志』参照)




住吉神社境外末社「下照姫神社」裏手は貝原益軒ご子孫のお宅

【水鏡天満宮・水鏡天神】
水鏡天満宮の江戸時代の呼称は、『筑前国続風土記』はじめ、いずれの地誌も「水鏡天神」と表記。同社縁起、また通説では、黒田筑前入部後、福岡市中東北方向の鬼門の守りとして、庄村(現中央区薬院)にあった「容見天神」が、長政により遷座されたとされる。

九州大学所蔵の19C初頭成立とされる、〜福岡城下町・博多・近隣古図〜を検証すると、福岡城東取入口・升形門西側裏手に沿う水鏡天神、庄村の容見天神、いずれも記載がみえる(下図参照)。同図中の両社についての添書きには「四十川天神又水鏡天神とも又容見天神とも云菅丞相大宰府へ左遷乃時袖乃湊に御上り給ひ四十川乃水に御形を写し給はハ嘆き給ふにより名付けしと。橋口庄村両所にて御社なり」とあり、水鏡天神は、容見天神が分祠されたものであり、江戸期中には、「両所にて御社なり」と記すように、両所で一社と認識されていたと考えられる。



引き続き、〜福岡城下町・博多・近隣古図〜(下図)を参照すると、水鏡天神は博多津中と福岡市中をさえぎる守り、櫓さえのせる福岡城東取入口・升形門を北側の勝立寺境内とともに囲んでいる。那珂川左岸には、3メートルHの塀を乗せた、5メートルHの石垣が升形門を半ばに南北に連なる。東取入口のこの豪壮な構えは、元禄四年に福岡藩をおとずれ、博多側から福岡城内へ近づいた幕府巡検使に「ここから既に福岡城内郭か」と、案内の町人に問わせた(「西与市左衛門様御尋被成候口上之覚」・『博多津要録』1・巻5・9)。奥村玉蘭・筑前国名所図会「水鏡天神社図」は、水鏡天神境内のむこうに、幕府巡検使の視点の反対側、福岡城内郭側からみた升形門の豪壮な構えをスケッチしている(下、「名所図会」参照)。幕末から明治初年に撮影されたと考えられる「升形門・西中島橋古写真」は、幕府巡検使視察時と同じ角度からの景色。巡検使の驚きを納得させる(下、古写真参照)。福岡市中東北、鬼門の位置は、実は、水鏡天神より北にあたる。長政は、縁起が述べる鬼門封じとは別に、博多津中を破り、東取入口・升形門に迫る敵を迎撃することを想定し、兵を展開する場として、勝立寺とともに水鏡天神を配したと、伝わる古図や幕府巡検使の証言が語る




奥村玉蘭・筑前国名所図会「水鏡天神社図」


「升形門・西中島橋古写真」

【警固神社】
「本丸ハもと警固大明神鎮座の地なりし」
貝原益軒編『黒田家譜』巻之十四文献出版版一巻p464現代語訳

福岡城本丸に警固神社は鎮座していたが、下警固村に長政が遷座させた。警固神社末社・若一王子も、その後、その神威を恐れて産の穢れのこともあり本丸から避けた。二代忠之は本丸の御殿で出生、、、

〜 警固大明神・小烏大明神 〜
『筑前国続風土記』巻之三 福岡 抜粋 現代語訳
現在、警固神社と合祀される小烏神社は、古くから現在地に鎮座する。その祭神は建角身命で京都下加茂神社末社・小烏社と同じだ。警固神社は福岡城本丸である福崎山上にあった。本丸に警固藤という藤がある。警固神社鎮座の名残だ。現在も本丸南に若一王子があるが、これは警固神社末社だ。慶長六年、長政は福岡築城に際して、警固神社を下警固村の山の上〔現・小烏神社鎮座地〕に移した。其後慶長十三年、薬院町の東〔現・警固神社鎮座地〕の小烏社に合祀したのだ。社伝によれば、警固神社祭神は、日本書紀神代上巻記述の、神直日命・大直日命・八十枉津日命三神だという。イザナギの命が橘の檍が原で御禊した時、化生た九神うちの三神だという。九神化生の神話は、日本書紀神代巻に詳しくあり、ここでは述べない。警固神社祭神を神直日三神とすることについては確認できない。しかし、九神のうち六神は博多湾に面して鎮座する住吉神社、志賀海神社祭神であり、残余の三神の鎮座地が、同じく博多湾を見下ろす福崎の山上にあった警固神社であるというのは理屈にかなう。社伝もそうしたことから三神を祭神と主張するのだろう


福岡市中を守る外堀機能をもつ薬院川に沿いに警固神社は落ち着く

【鳥飼八幡宮】
『筑前国続風土記』巻之三 福岡
西町にあり。其始は鳥飼村松林の中に鎮座し給ふ。(今も其跡に、神木の松のこれり)長政公入国の後、鳥飼村に別墅をかまへたまふ。此社其境内にありし故に、慶長十三年今の所に移し奉らる。社家の説にいひ伝ふるは、神功皇后新羅より帰らせたまふ時、十二月四日、姪浜より上らせたまひ、夜に入て鳥飼村に至り給ふ。御扈に候ひける鳥飼氏の人、夕の御膳を奉る。皇后御悦斜ならず。今度一挙は、胎門におはします皇子の御ためなればとて、其おひさきを御祝ひおはしまして、近臣等に御手づから御盃を給りける。後世其地に御廟を立て、若八幡と号し奉るとなん。御社の中殿には八幡大神を祝ひ、左には宝満大神、右には聖母大神鎮座したまふ。側に彼鳥飼氏の始祖をも祭り侍るとかや

〜 要点 〜
・鳥飼八幡宮は、鳥飼村松林の中に鎮座していた。
※現「神功皇后御駐輦之跡碑」南当仁小学校北東角
・慶長十三年、長政が現在地へ遷座させる
・三韓征伐凱旋時の神功皇后への鳥飼氏による接応が当社のはじまり
・旧鎮座地には若八幡を祀る
・主祭神は応神天皇。相殿は玉依姫・神功皇后

鳥飼茶屋/鳥飼い村のひがし、別業茶屋の石がき際まて水たゝへ、船にて鳥飼の茶屋に着給ふ
『筑前国続風土記』巻之三 福岡・福岡城

黒田孝高・長政父子は、鳥飼八幡宮を遷座させると、別業茶屋・鳥飼茶屋を設らえる。宗湛日記に「鳥飼茶にて」・「鳥飼にて」と記した、ふたりが主人をつとめる茶会の記録がある。その後、同地は「茶屋の内」という町名をあたえられる。


鳥飼八幡宮旧遷座地、後の茶屋の内は、湿地帯に形成された台地という地形であり、秀吉が攻めあぐねた末、水責めを敢行した備中高松城を囲む地形に類似する。

御物本『蒙古襲来絵詞』には「小勢は別府に塚原へひく、塚原より鳥飼潟を大勢になり合むと引くを」。城戸清種『豊前覚書』(文献出版版p28天正八年戸次道雪鑑連)には「早良郡之内、鳥飼村へ、郡中之者共、肥前方仕まつり、彼の村こしらえ籠居候間、御打破候」とあり、鳥飼に軍事施設があったことを示唆する記述がみられる

青柳種信は『筑前国続風土記拾遺』に、「〔鳥飼〕本村の東の方に御茶屋の内という所有。是城址也。四方に高土手有り。昔は高く大なりしを、後に塩田に開き、或いは土を引などして、今纔(わずか)に其形を存せり」と、茶屋の内が城跡であることにふれる。長政は、福岡城西の守り大濠の先、鳥飼八幡宮旧鎮座地に茶屋を造りもしたが、同時に要塞としての整備を施したとも考えられる。


奥村玉蘭・筑前名所図会「千賀浦図」。茶屋の内、現南当仁小学校方面から、大濠を介して見る福岡城。森、左手の二層の建物は潮見櫓。中央の三層は武具櫓

慶安元年1648・幕府二代忠之に荒戸山東照宮造営許可/承応二年1652完成
明治四年1870年廃藩置県により黒田家東京へ。旧黒田家臣をはじめとする市民から 城内相御殿移転の要望が出され、翌5年、小烏馬場の・吉祥院跡(現福岡市中央区天神2丁目、警固神社付近)へ遷され、孝高法号・龍光院殿、長政法号・興雲院殿のそれぞれ一字をとり、光雲神社と改める。同42年、荒戸山東照宮が配された、西公園に新たな社殿が完成し遷座される。(福岡市博物館・ 企画展示No.282「神になる殿」より)


奥村玉蘭・筑前名所図会「荒戸山東照宮図・長崎番船帰帆」
左から徳川家光位牌を納める源光院、荒戸山東照宮、藩御船屋、長崎から帰帆の藩水軍


荒戸山東照宮神体「木造東照権現坐像」(福岡市指定有形文化財)


明和五1768六代継高、天守台下に長政を聖照権現として祀る。安永二年1773、孝高、水鏡権現として合祀。相御殿とよばれる。

当日配布資料:レジュメ
  


Posted by Frco.Don at 22:27Comments(0)歴史遠足・講演報告