2013年07月12日
筑紫館(ちくしのむろつみ)太宰鴻廬館での七夕祭
萬葉集の巻十五には、天平八年(七三六)に発遣された、阿部継麻呂を大使とする遣新羅使一行が遺した一四五首に亘る歌が収められています。
なかに、旧暦でいえば秋となる七月十五日に行われていた七夕祭の歌が、往路中、滞在した筑紫館(ちくしのむろつみ)、即ち、鴻廬館で詠まれたものとして見えています。
一行は、難波から太宰府を目指す途上、周防灘で遭難してしまいます。当時、那の大津と呼ばれていた博多湾を出て後には、壱岐島で随員の一人・雪連宅滿が「にわかに鬼病に遇いて死去」します。目的の新羅に着きはしましたが、外交使節としての礼を受けることができず、大使の阿倍継麻呂も、失意の復路途上に病没してしまいます。まことに、不運にとり憑かれたと例えられる道行でした。
筑紫館での七夕祭の歌は、「七夕に天漢を仰ぎ觀て、各の所思を陳べて作れる歌三首」との詞書があります。一行は春には筑紫へ入り、順風を待つのですが、季節は巡り、秋に及んで七夕の夜を向かえたのでした。
三首は、、、
秋萩ににほへる吾が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば
年にありて一夜妹に逢ふ彦星も吾れにまさりて思ふらめやも
夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ舟人を見るが羨しさ
秋萩が匂い立つ私の袖を濡らしても君が乗る船の綱を取ろう、年に一度恋人と逢う彦星も私ほどの思いは持っていないだろう、月夜の夕べに影をたて天の河に船を漕ぐ人の羨ましいことよ、ほどの意をのせ、歌っています。いずれの歌も、困難な旅の宿所に発ったため息とも思える調べです。
筑紫館の時代。七夕には、「棚機女」の祭が行われていたといいます。五色の糸や布を飾り、灯明を灯した神棚に山海の幸を供えたうえ、雅楽を奏で、歌が詠じらていました。
新羅使の面々も、祭文を唱えるとともに、ため息となって消え入るような、ここに並ぶ歌を詠じたのかもしれません。月夜であったか、星の夜であったか。筑紫館建つ波上の丘から見えるはずの、那ノ大津・博多湾と大海を扼して、細い孤線を描く海ノ中道は、闇に、その白砂を少しは見せていたものか。使いとしての覚悟は変わらぬものの、その指す先きが都であればとの思いは、風を待つ日月のなかで、一行のいずれもが心に思ったのでないかと推し量れます。
天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都にこと告げやらむ
いよいよ、新羅へとむけて大海へと乗り出す日を前に、一行の誰かが望郷を歌うのでした。

なかに、旧暦でいえば秋となる七月十五日に行われていた七夕祭の歌が、往路中、滞在した筑紫館(ちくしのむろつみ)、即ち、鴻廬館で詠まれたものとして見えています。
一行は、難波から太宰府を目指す途上、周防灘で遭難してしまいます。当時、那の大津と呼ばれていた博多湾を出て後には、壱岐島で随員の一人・雪連宅滿が「にわかに鬼病に遇いて死去」します。目的の新羅に着きはしましたが、外交使節としての礼を受けることができず、大使の阿倍継麻呂も、失意の復路途上に病没してしまいます。まことに、不運にとり憑かれたと例えられる道行でした。
筑紫館での七夕祭の歌は、「七夕に天漢を仰ぎ觀て、各の所思を陳べて作れる歌三首」との詞書があります。一行は春には筑紫へ入り、順風を待つのですが、季節は巡り、秋に及んで七夕の夜を向かえたのでした。
三首は、、、
秋萩ににほへる吾が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば
年にありて一夜妹に逢ふ彦星も吾れにまさりて思ふらめやも
夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ舟人を見るが羨しさ
秋萩が匂い立つ私の袖を濡らしても君が乗る船の綱を取ろう、年に一度恋人と逢う彦星も私ほどの思いは持っていないだろう、月夜の夕べに影をたて天の河に船を漕ぐ人の羨ましいことよ、ほどの意をのせ、歌っています。いずれの歌も、困難な旅の宿所に発ったため息とも思える調べです。
筑紫館の時代。七夕には、「棚機女」の祭が行われていたといいます。五色の糸や布を飾り、灯明を灯した神棚に山海の幸を供えたうえ、雅楽を奏で、歌が詠じらていました。
新羅使の面々も、祭文を唱えるとともに、ため息となって消え入るような、ここに並ぶ歌を詠じたのかもしれません。月夜であったか、星の夜であったか。筑紫館建つ波上の丘から見えるはずの、那ノ大津・博多湾と大海を扼して、細い孤線を描く海ノ中道は、闇に、その白砂を少しは見せていたものか。使いとしての覚悟は変わらぬものの、その指す先きが都であればとの思いは、風を待つ日月のなかで、一行のいずれもが心に思ったのでないかと推し量れます。
天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都にこと告げやらむ
いよいよ、新羅へとむけて大海へと乗り出す日を前に、一行の誰かが望郷を歌うのでした。
