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競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2014年07月07日

高松城水攻めは官兵衛じゃなくて秀吉の思い付きだった

【軍師・黒田官兵衛百物語46話】
本当の高松城水攻めは官兵衛じゃなくて秀吉の思い付きだった


軍師・黒田官兵衛百物語

佐柿弥右衛門常円という、羽柴秀吉の近くに、日頃、控えていた家臣がおりました。
具体的な役職は不明です。秀吉が馬場で馬慣らしを行う時などは側にいた、などと、
本人の回顧談が伝わっています。

常円は江戸時代に入ると、池田家岡山藩領に住み、百歳の長寿を全うしたそうです。

その常円からの聞き語りを、岡山藩士の村瀬安兵衛がまとめた「備前国人佐柿常円
入道物語」という書があり、なかに、備中高松城水攻めの際の堰堤建設についての報
告があります。

当時従軍した証言者は語る

備中平野を、北から南に流れ下ってくる足守川を、東西の位置で挟む丘陵の あいだ
に堰堤をつなぎ、高松城を湖水に浮かべてしまうという作業は、高台から高松城を見
下ろしていた秀吉が「誰でもよい、ついて参れ」と発した一言から始まったと常円は語
っています。秀吉の急な思いつきの言葉に、その時、従ったのは7、8騎。なかに常円
がいたのです。

高松城の水攻めについてふれる書は、「備中高松記」「清水長左衛門尉平清水宗治
由来覚書」などの他にも、多々、ありますが「備前国人佐柿常円入道物語」にみる堰
堤建設の物語は、当事者の証言だということです。

さて、秀吉は、7、8騎をひきつれ高台を駆け下ると、細竹を用意させ、足守川の河原
を中心に、高松城を挟む丘陵との間に点々と立てさせ、今から築く堰堤の目印とした
のです。

先週の大河ドラマでは岡田官兵衛が、軍議の場に高松城周辺の模型を持ち出し、
水攻めの策を説明する場面がありました。高松城水攻めの策は官兵衛の発案だと
いうわけです。

史実は秀吉によるものなのです!

小和田哲男著「黒田如水」では、この築堤工事について官兵衛の献策と従来されて
きたが、そのことを証明する史料は見つからない。姫路育ちの官兵衛よりも、木曽川を
見て育った秀吉、蜂須賀小六らによる本能的な直感から生まれた策だろうと、まとめら
れています。

高松城水攻めは官兵衛じゃなくて秀吉の思い付きだった





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