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競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2012年03月21日

石村さん勅使道店「西公園のお花見団子」縁起




石村萬盛堂さんの香椎勅使道店で「西公園のお花見団子」なる季節限定のお団子を見つけ、ひとくさり。

萬盛堂の石村さんのお家は、元々、福岡藩に仕えた大工のお家でした。
昭和28年に、福岡城の塩見櫓が改修されますが、その際、石村次衛門と石村家のご先祖様の名が入った棟札が見つかっています。

他に、志賀海神社、崇福寺、東長寺、住吉神社能楽堂などが大工としての石村家が手がけた建築物としてあります。

そんな石村さんのお家が菓子屋となったのは当代を二代遡る、石村萬盛堂初代の善太郎さんからです。
現在の社長・善悟さんのおじい様ということですが、善太郎さんは、体質的に幾分弱かったということと、神仏に捧げるものである菓子造りに魅かれて、菓子職人の道を選びます。

修行は11歳の時から3年間。

対馬の明石家という菓子屋に奉公に出ます。
奉公は、一度も家にも博多にも戻ることなく続けられました。
3年が経ち、博多へ戻った時には、奉公に出た時と同じ着物で、袖の筒先が二の腕までまくし上がったうえ、つんつるてんだったと言います。

善太郎さんのお母様・タツさんは、そんな姿で博多港へ降り立った善太郎さんを、確り抱き寄せ、泣いたそうです。

その後、善太郎さんは、叔父さんにあたる石村夘三郎さんの石村萬歳堂さんの他、博多市中の数件の菓子屋での勤めを経て、明治38年(1905)に現在の石村萬盛堂を独立開業します。ちなみに、この年は、日露戦争の日本海海戦で、わが国が勝利した年でした。

で、

西公園での花見の季節には、西公園の参道際に山車を設けての団子売りが、開業当初だった、その頃の石村萬盛堂さんの年中行事だったのでした。
二代・善右さんは、少年の頃、西公園の参道際に父親の善太郎さんと並んで、他の店に競って、招き声を出していたことを、懐かしい思いでとして語っています。

香椎勅使道店で4月8日までの期間限定で売られている「西公園のお花見団子」は、そんな石村萬歳堂さんの創業当初の様子を物語る、特別なお団子なのです。

但馬守





こちら、おまけです。志賀島・海ノ中道の朝


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Posted by Frco.Don at 21:37Comments(0)筑前國菓子風土記

2012年03月01日

石村萬盛堂「献上・鶴乃子」起源と最高速体験のおまけ。


石村萬盛堂さまの銘菓「献上・鶴乃子」は、先帝陛下が「鶴乃子」がお好きで、よくめしあがられていた所から、特別に作られたお菓子です。
先帝昭和天皇さまが、「鶴乃子」をお好きで、よくめしあがられていると云う事を聞いた萬盛堂さんが、それでは、特別な「鶴乃子」を献上しようということで「献上・鶴乃子」が作られたのでした。
先帝陛下、ご不慮の際には、三笠宮妃、高松宮妃さまが石村萬盛堂さま本店を訪ねられ、「献上・鶴乃子」を求めていかれる、ということがありました。



こちら、萬盛堂さま本店に飾られていた雛さま



こちら、福岡モーターショー2012で最高速体験の太郎王です。

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Posted by Frco.Don at 09:04Comments(0)筑前國菓子風土記

2012年02月11日

博多承天寺前で売られていた「辻堂餅」

博多承天寺前で「辻堂餅」という餅が売られていたと貝原益軒の「筑前國續風土記」にあります。その餅は「都の大仏餅と同じものだ」と益軒は説明しています。





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こちら、毎週土曜日午後4時からNHK-FMを聞いてる方のみ面白い動画となっています。  


Posted by Frco.Don at 10:17Comments(0)筑前國菓子風土記

2010年11月24日

昔の博多のお菓子.序 日本三大銘菓最古ha博多のお菓子

「長生殿」金沢市.森八、「越の雪」新潟県長岡市.大和屋、そしてご当地、博多区上川端に
暖簾を構える、松屋菓子舗の「鶏卵素麺」

 これは、「日本三大銘菓」と云われるお菓子を並べたもの。

 森八の「長生殿」は、落雁。
 金沢藩主・前田利常が創意したもので、森八三代目の八左衛門が今に伝えている、とか。

 大和屋の「越の雪」は、餅米の寒晒し粉に和三盆糖をのせたもの。
 安永七年(1778)。長岡藩九代藩主・牧野忠精が病に伏すということがあった。 
 その際、大和屋の祖・庄左衛門が、寒晒粉に甘みを加えて調理した菓子を作り、献上したところ、忠精の食欲を戻し、病は癒えた。

 江戸時代中頃まで、菓子は、薬菓子として薬屋の棚に並べて売られていたという。菓子の一部は、薬から岐れて、現在のような嗜好品になった、という話だ。そのことをうら付けてくれる、忠精が口にした菓子。これが、後の「越の雪」ということらしい。

「長生殿」「越の雪」
 この二つは、いわいる、京菓子の系統を引いている。

 さて、「鶏卵素麺」は、鶏卵を糖蜜に晒す、という至って素朴な作り方で伝わってきた南蛮菓子。そして、「長生殿」「越の雪」よりも古い歴史を持っている。

 意外と思われるが、京菓子よりも、南蛮菓子の方が、古くから伝わってきた。

 京菓子は、それまで、餅菓子や、饅頭。その他、煎餅をはじめとした、焼き菓子などのみが菓子としてあった所に、元禄期以降、商品経済の発達にともなって、京都から始まり、全国で真似たものを作るようになった。

 南蛮菓子は、元禄期を100年は遡る、室町末期。織田信長や豊臣秀吉の時代に
に、ポルトガル、イスパニヤの宣教者や貿易商人の手によって、わが国にもたれされた。九州を中心に、多くの種類が、その後、定着して現代まで生き残り、伝えられることになる。献上したコンペイ糖を、信長が無邪気に頬張り、ぼりぼりと音を立てて食べながら、喜んでいた、と宣教師がローマ法王庁への書簡に書き残していたりもする。

 大航海時代のポルトガルに原型を求められる「鶏卵素麺」も、コンペイ糖と同様、信長が喜んで食べていたのかもしれない。

「南蛮料理書」
 同書は、世紀1600年以前に、西九州の何れかで書かれたとされている、現存する唯一の南蛮菓子料理書だ。その一項目に「鶏卵素麺」の製法が記されている。

 三大銘菓の一つ、「鶏卵素麺」に限らず、博多と菓子の付き合いは古い。
 饅頭の最初は、博多区博多駅前の承天寺を開いた聖一国師が、栗波清左衛門という、荒津・現在の中央区荒戸の茶店の主人に、宋から覚えて来た、その製法を伝えた所からだとか。これは、鎌倉時代中頃の話。

 今では、すっかり、名古屋のお土産の顔となっている「ういろう」も中国大陸で元が滅び、わが国へ亡命してきていた陳外郎・チン.ウイロウ(「ういろう」は元国の官名・準職員ほどの意味)の子孫がはじめて製したという。その陳外郎は、現在の博多区御供所町に境内をもつ妙楽寺を亡命の安住地として住んでいた。こちらは、鎌倉時代も末のこと。

 煎餅は、遣唐使として遊んだ唐から帰って来た空海が伝えた、という伝承がある。山城国のなんとかと云う者に、空海は、その製法を伝授したらしい。煎餅の始まりは、山城国からということだ。
 そうだろうか、空海は唐から帰朝したものの、諸事情があって、すぐには都へ
上らず、太宰府辺りを中心に2年ほどのあいだ、九州にいた。その間、暇に任せて、唐から製法を覚えて来た煎餅を焼いてふるまうようなことが、2.3度はあったかもしれない。煎餅が初めて焼かれたのは博多ノ津でのことかも、という想像は許されるだろう。

 水田耕作最古の地のことでもあるし、餅を最初に搗いたのも、福岡平野の弥生人だったのでは、とも思う。

 神話の時代まで遡れば、菓子の神様として、古事記垂仁紀に出てくる、タジマモリは、前原市の高祖神社に関わりがあったりする。

 こうして、勝手な想像も含めて、許してもらえれば、博多は日本のお菓子の初源の地だと、言うことができる。

 そんな、博多で昔、むかし楽しまれていたお菓子のレポート。
 ぼちら、ぼちらと始めます。
 

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当ブログ主が運営するたろう堂では、本.CD.版画の出張買い取りを致しております。お気軽にお問い合わせくださいませ。(福岡都市圏中心・モノによってはパスポートを手に参ります)

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一般書籍.CDは大手古本店と同額査定。
海、ウマ関係書籍、幼児・児童書関係、クラシックCDは大手古本店より3%高く買い取り。
海・ウマ関係書籍中、ヨット.馬術関連/児童書中、学習まんが/クラシックCD中、バロック.教会音楽.古楽関係は大手古本店より5%高く買い取り。

版画は鑑定の上、価格を査定

 ご一報は、以下、いずれかをご利用ください。

 同ブログオーナーへのメッセージ欄より
 メール taro_do@ybb.ne.jp
 携帯電話 090-2512-4299(清田)


 〒811-0322 福岡市東区大岳3−21大岳住宅1−301 たろう堂/清田進
 電話.フアックス 092-603-0870


特に、学習マンガシリーズ まんが日本史や世界史をはじめとしてなどなど。ほかに、絵本、児童書などこども物全般探索中。お気軽にご一報を!

 福岡県公安委員会古物商 第901031010061号
(10月28日付けで許可証を東署で頂きうれしがっております。)
  


Posted by Frco.Don at 20:49Comments(0)筑前國菓子風土記

2009年08月06日

日本一古い博多名物・鶏卵素麺

|博多意外史 日本三大銘菓・鶏卵素麺 松屋
|黒田五十二萬石筑前藩で一番古いお菓子屋さんの話  巻二


〜 日本三大銘菓の中でも一番古い「鶏卵素麺」の歴史 〜

黒田五十二萬石筑前藩中、最古の暖簾を誇る、菓子店・松屋が、一子相伝してきた「鶏卵素麺」は、加賀三代藩主前田利常侯の命名という石川県金沢市の森八「長生殿」、長岡藩御用菓子屋であった新潟県長岡市の越の雪本舗大和屋の「越乃雪」と並ぶ日本三大銘菓の一つだ。



三つの銘菓のうち、「長生殿」と「越乃雪」は和菓子の系統に分類されるが、「鶏卵素麺」は南蛮菓子だ。



一般に言う和菓子は、穀類を主に製造する京菓子が江戸幕藩体制が安定していくのにともなって都から全国へ波及したもので、その始まりは、早くても江戸前期後半。

@ 日本三大銘菓で博多名物
    松屋の「鶏卵素麺」



一方、卵と砂糖をふんだんに使う、鶏卵素麺、金平糖、丸ボウロ、カステラなどの南蛮菓子は、ガリオン船が分ける波に乗って海外から戦国期にもたらされ、南蛮文化を色濃く受けた地域に広がった。その伝播は、和菓子よりも百年は早い。

イエズス会の宣教師・ルイスフロイスは織田信長に金平糖を土産に持って行くと何よりも喜んで食べていた、とその日本滞在記・日本史に記している。

南蛮菓子は、徳川幕府が海外交渉の禁を発する以前の交易が許され、ポルトガルやスペインの船が行き来していた時代からあるもので、その製法を一子相伝で伝える菓子店があるとすれば、製法の最初の伝授は信長、秀吉が生きた時代という古さなのだ。

九州帝国大学・文学部教授であった宮本又次氏は、その著書「近世商人風土記」(日本評論社・1971年刊)で、初代・松屋利右衛門は、主家の商用に番頭として長崎へ従って行った際に「鶏卵素麺」の製法を鄭という明人から学んだとしている。
                                                                                                @ 金平糖を食べていた信長

長崎行きに従った主家というのが、博多の豪商三傑の一人とされた大賀宗九を祖とする大賀家だ。

大賀家のもとは、キリシタン大名として知られたドン・フランシスコ・大友宗麟の大友家に仕えた大神一族であった。その家伝によれば、大友家没落とともに侍を捨て、姓も大賀に変えたのだという。旧主・大友家は広く海外交易も行っていたが、長崎の豊後町(現・興善町)には貿易のための代官所があった。大賀家が大神を名乗り、まだ大友家の家臣としてあった時期は、長崎における海外交易の拠点でもあった代官所に関わる職掌にいたのかと思われる。江戸期に入り商家となっても、長崎に出店を設け出島建設にも大きく関わるなど、長崎との関わりが深かった。

鶏卵素麺も、他の南蛮菓子同様、その伝播は信長、秀吉の時代にさかのぼる。
初代・松屋利右衛門が、その製法を知ったのも、主家大賀について訪ねた、長崎に海外からの交易商人が集っていた頃の話で、それは古いことなのだ。

(つづく)

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【連載索引】

博多意外史 日本三大銘菓・鶏卵素麺 松屋
黒田五十二萬石筑前藩で一番古いお菓子屋さんの話 巻一  


Posted by Frco.Don at 06:57Comments(0)筑前國菓子風土記

2009年08月01日

創業疑惑/博多の電気車は?/情報公開拒否県議会など

  〜 闘争する雑誌 Web板 7月27日週号 目次 〜

  ・ 連載・政治を調べる(3) 厳しく追及しながら自分たちはゆるゆるの議会 

  ・ 秀吉が食べた五十二万石本舗さんのお菓子(3)
    五十二萬石 如水庵創業450年取り下げ報道

  ・ 博多意外史 黒田五十二萬石筑前藩で一番古いお菓子屋さんの話 巻一
     日本三大銘菓・鶏卵素麺 松屋

   ・ 動画・News 走るアシモ・ロボットの疾走

  ・ 電気自動車.EVは博多の町ば走れると?(3) 日産の9世代EV

  ・ 開明知事・市長会見抄録 中田横浜市長 辞任会見の一つ前の会見より

  ・ 天の邪鬼コラム 砲撃せな世の中変わらん 中田横浜市長辞任  


 @ Blog campaign 福岡市東海岸/志賀島・海の中道・奈多三苫海岸を世界遺産に!
  奈多海岸から望む海の中道、志賀島方面  


Posted by Frco.Don at 06:45Comments(0)筑前國菓子風土記

2009年08月01日

如水庵創業年取り下げ報道

秀吉が食べた五十二萬石本舗さんのお菓子(3)

きついお灸・創業450年取り下げ/西日本新聞報道

天正十五年に豊臣秀吉が箱崎浜で設けた茶会は、「野点」の始まりともされ、五十二萬石本舗の祖と「筑紫菓匠 五十二萬石如水庵 創業四二〇の軌跡」で著者の荻野氏がいう、松永庄右衛門なる人物がその場にいたことがもし事実であれば、茶の湯の歴史にも関わってくる話だ。

江戸時代に起きた博多市中のできごとを記録した「博多津要録」をはじめとした多くの古文書にその屋号が見え、これまで博多で最も古い菓子屋だとされてきた鶏卵素麺でおなじみの「松屋」さんの歴史も間違いであった、ということにもなる。

石村萬盛堂、二○加煎餅の高木東雲堂さんや左衛門さんなど百年を誇る歴史を持つ老舗が博多には他にもあって、長い伝統と深い文化の中にあるお菓子業界はこの本の出版で大騒ぎとなってしまう。

荻野氏が、高木東雲堂さんのお店の写真を無断で同書の中に使用していたという、どうしょうもないエピソードも含めて、五十二萬石如水庵さんは、全国観光土産品公正取引協議会から警告書の送付を受け、西日本新聞に下のような記事を掲載されるはめになってしまう。

(つづく)

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【 連載過去記事 】

秀吉が食べた五十二萬石本舗さんのお菓子(1)
 証明できない420年前という創業と秀吉が喰ったというお菓子

秀吉が食べた五十二萬石本舗さんのお菓子(2)
秀吉に菓子を喰わせた五十二萬石の祖・松永庄右衛門


  〜 闘争する雑誌 Web板 7月27日週号 目次 〜

  ・ 連載・政治を調べる(3) 厳しく追及しながら自分たちはゆるゆるの議会 

  ・ 秀吉が食べた五十二万石本舗さんのお菓子(3)
    五十二萬石 如水庵創業450年取り下げ報道

  ・ 博多意外史 黒田五十二萬石筑前藩で一番古いお菓子屋さんの話 巻一
     日本三大銘菓・鶏卵素麺 松屋

   ・ 動画・News 走るアシモ・ロボットの疾走

  ・ 電気自動車.EVは博多の町ば走れると?(3) 日産の9世代EV

  ・ 開明知事・市長会見抄録 中田横浜市長 辞任会見の一つ前の会見より

  ・ 天の邪鬼コラム 砲撃せな世の中変わらん 中田横浜市長辞任  
  


Posted by Frco.Don at 06:20Comments(0)筑前國菓子風土記

2009年07月31日

黒田藩中最古の菓子とお店/博多意外史

|博多意外史 日本三大銘菓・鶏卵素麺 松屋
|黒田五十二萬石筑前藩で一番古いお菓子屋さんの話  巻一




 毎度、博多祇園山笠でおなじみの博多総鎮守・櫛田神社の正面に建つ鳥居。
 この鳥居が寄進された同じ頃に創業し暖簾を守ってきた老舗菓子店がある。

 鳥居左柱に「延宝三年乙卯奉正月下浣之日」とある。
 西暦にすると1675年。

 その2年前の延宝元年、1673年に創業を迎え、今日まで松屋利衛門
 という屋号を12代、およそ340年に及んで受け継いできた、現在福岡
 市博多区上川端に暖簾を構える、鶏卵素麺でおなじみの「松屋」さん
 だ。

 一子相伝で伝えてきたとされる「鶏卵素麺」が南蛮菓子であること。
 その家系が、戦国時代に九州北半を治めた大守・大友家に関わりがあ
 ること。藩政時代の諸々の古文書に、その名が散見されること。
 これらのことから菓子老舗としては松屋さんの暖簾が旧筑前五十二萬
 石黒田藩領内では最古であることは勿論だが、全国で見ても、その歴
 史の古さは群を抜いている。

 そんな松屋さんの歴史をひも解くと、博多の意外な歴史にも触れることになる。鶏卵素麺のふく
 よかな甘さを思い出しながら、寄り道してたどる博多意外史。                 

(つづく)

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  @ 奥村玉蘭「筑前名所図絵」の山笠・櫛田入り図/「筑前名所図絵」は文政4年(1821)に
 完成した。図中の鳥居は延享三年に建立され、現在私たちが目している鳥居だ。

【連載索引】

博多意外史 日本三大銘菓・鶏卵素麺 松屋
黒田五十二萬石筑前藩で一番古いお菓子屋さんの話 巻二


  〜 闘争する雑誌 Web板 7月27日週号 目次 〜

  ・ 連載・政治を調べる(3) 厳しく追及しながら自分たちはゆるゆるの議会 

  ・ 秀吉が食べた五十二万石本舗さんのお菓子(3)
    五十二萬石 如水庵創業450年取り下げ報道

  ・ 博多意外史 黒田五十二萬石筑前藩で一番古いお菓子屋さんの話 巻一
     日本三大銘菓・鶏卵素麺 松屋

   ・ 動画・News 走るアシモ・ロボットの疾走

  ・ 電気自動車.EVは博多の町ば走れると?(3) 日産の9世代EV

  ・ 開明知事・市長会見抄録 中田横浜市長 辞任会見の一つ前の会見より

  ・ 天の邪鬼コラム 砲撃せな世の中変わらん 中田横浜市長辞任  
  


Posted by Frco.Don at 18:38Comments(0)筑前國菓子風土記

2009年07月21日

秀吉が喰った如水庵の菓子

秀吉が食べた五十二萬石本舗さんのお菓子(2)

秀吉に菓子を喰わせた五十二萬石の祖・松永庄右衛門

ノン・フィクションであるはずだが、読者に推理小説を読ませるかと錯覚させる「筑紫菓匠 五十二萬石如水庵 創業四二〇の軌跡」という珍妙なる著作。

同書の主人公である、五十二萬石本舗如水庵の祖であり、天正十五年に博多郊外の箱崎浜で茶会を持った豊臣秀吉に菓子を呈上したという松永庄右衛門とはいったいどのような人物なのだろうか。

同書・第三章「筑紫菓匠・五十二萬石本舗如水庵の系譜」冒頭に松永庄右衛門についてまとめた部分が見え、

 松永庄右衛門は、五十二萬石本舗の前身である菓子屋『榮松堂』の初代であり、
 農業を営む傍ら、菓子造りを始め、秀吉の箱崎松原茶会の菓子をつくったと伝わ
 る。

 松永家はかって、犬飼村や比恵に広い田畑を持つ松永庄を持っていたといわれる。

 また、松永家は長崎にも知人がおり「砂糖」などの入手の経路を持っていたと思
 われる。

 初代福岡藩主黒田長政(一五六七〜一六二三)の時代では、松永家は米糖の御用
 を司り、銘菓「松風饅頭」で知られ、苗字帯刀を許されていたといわれる。

などのことが上げられている。

さて、これらについて、証拠を挙げ歴史的な事実であることを証明するのが「歴史研究家」と同書中自称されている著者・荻野忠行氏に課された仕事であろうし、同書が出版された目的なのだが、全くその用を達していないとしか言いようがないのが実体だ。

庄右衛門が農業を営む傍ら、菓子造りを始め、秀吉の箱崎松原茶会の菓子をつくったということについての裏付けは、五十二萬石本舗現社長である森光二郎氏から聞いた話と、先代か先々代当たりが発行していたと思われる、菓子箱に貼付するチラシの記述を持ち出し説明されている以外に、何の根拠も示されてはいない。

長崎からの「砂糖」入手についても、森家に伝わる家伝が根拠にされているようだ。

米糖御用と苗字帯刀の件についても、先代から森氏に伝わる話がそんまま引用されている始末だ。

刀が森家にあったことを上げて、松永家の苗字帯刀の件が事実であったのだと、「歴史研究家」らしからぬ記述も別にあって、これには、唖然とするしかない。

とにかく、秀吉に菓子を食わせるという、大げさに言えば歴史的行為を行ったとも言える人物だと荻野氏が主張する松永庄右衛門なる人物の存在を証明するのに、福岡藩の記録や安武文書などの旧粕屋郡犬飼村周辺を触れとして任せられていた総庄屋の記録、または博多津要録などの古文書など記述を挙げての「歴史的検証」は全く見られない。

そんな著作が世に出されたことによって、福岡菓子組合の間で創業に関する論争が巻き起こり五十二萬石本舗さんは警告書を突きつけれれることになってしまう。

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   〜 闘争する雑誌 Web板 7月21日週号 目次 〜

  ・ 連載・政治を調べる(2)/議員第二の給料50万円「政務調査費」の行方 

  ・ 秀吉が食べた五十二万石本舗さんのお菓子(2)その確たる証拠は?

  ・ 天の邪鬼コラム(1) 自民細田幹事長、国民の程度発言 
               幹事長!国民の程度は自民党の先生方の程度


  ・ 天の邪鬼コラム(2) 麻生首相ついに「 泣くな!解散 」 
               首相、泣かんでもよかでッしょ!
               自ら好んでの今日でしょうから


  ・ 速報 動画・News 豪雨 海の中道海浜公園西口前道路冠水
 
  ・ 動画・News アシモのゴールキック

  ・ 電気自動車.EVは博多の町ば走れると?(2)

  ・ 天の邪鬼コラム(3) 5選を目指す麻生知事に宗像神の神罰

  ・ 号外・筥崎宮さんの歴史二題 高灯籠と箱崎党の話
  


Posted by Frco.Don at 16:41Comments(3)筑前國菓子風土記

2009年07月15日

秀吉が食べた五十二萬石本舗さんのお菓子

秀吉が食べた五十二萬石本舗さんのお菓子(1)

証明できない420年前という創業と秀吉が喰ったというお菓子


  二年前に出版された左の書籍。

 「筑紫菓匠 五十二萬石如水庵 創業四二〇の軌跡」

 との、タイトルが示すように、その内容は420年前とする五十二
 萬石本舗さんの創業を検証するものになっている。

天正15(1587)年島津を征討した豊臣秀吉は、その帰路、博多に立ちより一月ほど滞
陣する。

秀吉は、この間、数度茶会を持ったが、その際、五十二萬石本舗の祖であるという松永庄
右衛門なる人物が菓子を献呈し、秀吉が賞味したとのだと同書は断定する。同時に、秀吉
に菓子を食わせた天正15年を五十二萬石本舗の創業の年としている。

ところが、松永庄右衛門なる人物の実在と、五十二萬石本舗の創業を語るために持ち出さ
れる話のどれもが、とても論拠とは言えるものではなかった。そこで筆者は、ある雑誌に
その内容を検証し、批判する小論を示した。

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あれから2年が過ぎたが同書の著者・荻野忠行氏が新たに

「福岡城天守は四層(四重)か」という著作を著され、前出書の続編と言える部分が差し
挟まれている。

その案内文によると、

「 福岡博多の老舗菓子店「五十二萬石如水庵」の前身(松永庄右衛門が創業した
  栄松堂の存在を実証し(五十二萬石本舗社長森家の養子元である松永家を検証
  して、松永庄右衛門の実在を戸籍から明確に検出した。博多の菓子歴史がひと
  つ新たに明らかになった。                        」

とのことなので目を通して見ると、天正年間の人物の実在如何を戸籍に求めたという所か
ら、最早どういうことなのかと思われるが、今回も松永庄右衛門の実在について何ら証明
されことなく、420年前という五十二萬石本舗さんの創業を説明してもいない。

そればかりか、「そして、ここで有名な茶会を(秀吉)行うのである。それにちなんだ
みどり餅というのが博多の銘菓になっている」として、五十二萬石本舗とは異なる菓子店
の菓子が、秀吉の茶会で進呈されたかのような記述もある。

また、今回の著作では、松永庄衛門が非差別部落と関わりがあったとする記述がある。
前著では、松永庄衛門が藩に米や砂糖を納めていたと断定して書かれた部分があったが、
愚かなであり、悲しいことだが、非差別部落と「食」において関わりを持つもの手から藩
が米や砂糖を入れるなどということは歴史的事実として考えられない。

改めて、秀吉に菓子を食わせたという五十二萬石如水庵の祖・松永庄衛門を探る。

(つづく・次回は24日までに掲示の予定)


  〜 闘争する雑誌 Web板 7月12日週号 目次 〜

  ・ 連載・政治を調べる(1)/議員第二の給料「政務調査費」

  ・ 秀吉が食べた五十二万石本舗さんのお菓子(1)
 
  ・ 電気自動車.EVは博多の町ば走れると?(1)

  ・ 速報 朝倉市職員 ホームレス置り去り報道のその後

  ・ 天の邪鬼居士コラム 理由なき反抗・理由なき解散


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Posted by Frco.Don at 20:24Comments(0)筑前國菓子風土記