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Frco.Don
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競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2013年07月15日

兄媛、弟媛、呉織、穴織の宗像七十五社中 縫殿神社 福津市奴山

宗像神が縫物の進んだ技術を求めて呉から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、
呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)を招いた事を起源とする福津市奴山
集落の裁縫神社。

宗像神郡七十五社中の一社です。

須佐之男命が宗像三女神を生んだ後に、アメの忌み機屋に逆はぎにした馬を投
げ入れるという暴虐を働いたと古事記にあります。

また沖津宮・沖ノ島から金銅の織機が出土しています。同じく七十五社に数え
られる鐘ケ崎の織幡神社も織りにかかわる伝承を持っています。

とにかく、宗像三女神は織りとの深い縁を持つ神様です。

  


Posted by Frco.Don at 19:11Comments(0)三女神の海

2013年07月12日

筑紫館(ちくしのむろつみ)太宰鴻廬館での七夕祭

萬葉集の巻十五には、天平八年(七三六)に発遣された、阿部継麻呂を大使とする遣新羅使一行が遺した一四五首に亘る歌が収められています。

なかに、旧暦でいえば秋となる七月十五日に行われていた七夕祭の歌が、往路中、滞在した筑紫館(ちくしのむろつみ)、即ち、鴻廬館で詠まれたものとして見えています。

一行は、難波から太宰府を目指す途上、周防灘で遭難してしまいます。当時、那の大津と呼ばれていた博多湾を出て後には、壱岐島で随員の一人・雪連宅滿が「にわかに鬼病に遇いて死去」します。目的の新羅に着きはしましたが、外交使節としての礼を受けることができず、大使の阿倍継麻呂も、失意の復路途上に病没してしまいます。まことに、不運にとり憑かれたと例えられる道行でした。

筑紫館での七夕祭の歌は、「七夕に天漢を仰ぎ觀て、各の所思を陳べて作れる歌三首」との詞書があります。一行は春には筑紫へ入り、順風を待つのですが、季節は巡り、秋に及んで七夕の夜を向かえたのでした。

三首は、、、

   秋萩ににほへる吾が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば
   年にありて一夜妹に逢ふ彦星も吾れにまさりて思ふらめやも
   夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ舟人を見るが羨しさ

秋萩が匂い立つ私の袖を濡らしても君が乗る船の綱を取ろう、年に一度恋人と逢う彦星も私ほどの思いは持っていないだろう、月夜の夕べに影をたて天の河に船を漕ぐ人の羨ましいことよ、ほどの意をのせ、歌っています。いずれの歌も、困難な旅の宿所に発ったため息とも思える調べです。

筑紫館の時代。七夕には、「棚機女」の祭が行われていたといいます。五色の糸や布を飾り、灯明を灯した神棚に山海の幸を供えたうえ、雅楽を奏で、歌が詠じらていました。

新羅使の面々も、祭文を唱えるとともに、ため息となって消え入るような、ここに並ぶ歌を詠じたのかもしれません。月夜であったか、星の夜であったか。筑紫館建つ波上の丘から見えるはずの、那ノ大津・博多湾と大海を扼して、細い孤線を描く海ノ中道は、闇に、その白砂を少しは見せていたものか。使いとしての覚悟は変わらぬものの、その指す先きが都であればとの思いは、風を待つ日月のなかで、一行のいずれもが心に思ったのでないかと推し量れます。

天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都にこと告げやらむ

いよいよ、新羅へとむけて大海へと乗り出す日を前に、一行の誰かが望郷を歌うのでした。


  


Posted by Frco.Don at 06:24Comments(0)新・太宰管内史

2013年07月09日

「黒田官兵衛孝高如水」という名前

「黒田家譜」中に、「孝高は、我名代として諸将の命令をつかさどり、軍法を正しく合戦なさしむべしと仰せ付けられ、孝高を軍奉行として豊前へ指し下さる」と秀吉の命により、九州一円で勢力を伸ばす、島津氏征討のための毛利・吉川・小早川軍の軍監として官兵衛孝高が豊前へと下ったことが記されています。

この記述の部分には続けて少しあって、「孝高此比勘解由次官に任じられる。是より先き既に小寺姓を改めて、本性を黒田を称し給まう」とあり、地方の監督を職掌とする、「勘解由」という、九州地方平定の総監に任じられた立場にはうってつけの官名を関白秀吉から下賜されると同時に「黒田官兵衛孝高」という名が成立したことを語っています。

この時まで官兵衛はか播州姫路のつての主であった小寺氏の姓を名乗っていました。
九州の大藩・福岡藩の藩主としての氏姓黒田は、やはり九州との大きな関わりの縁で成ったというわけです。

天正十七年(1589)には出家し「如水」との号も得ます。官兵衛は、京都大徳寺の春屋国師を参禅の師としていたとも云われていますが、「如水・ジョスイ」は聖書で活躍するモーゼの後継者「ヨシュア」のスペイン語読みに音が通じているという指摘があります。

キリスト教の典礼で葬儀を行うよう遺言をのこしたほどの官兵衛のことです。その名に信仰を忍ばせていたのでは、という推測は許されるかもしれません。




※画像は黒田家菩提寺・崇福寺塔頭「宗心庵」仏殿  


Posted by Frco.Don at 21:18Comments(0)