QRコード
QRCODE
インフォメーション

アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 0人
プロフィール
Frco.Don
Frco.Don
競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2023年05月31日

志賀海神社・沖津宮風景


沖津宮祠

沖津宮祠への鳥居

舞能浜から沖津宮の島へ  


Posted by Frco.Don at 14:20Comments(0)新・太宰管内史

2023年05月29日

小学4.5.6年生対象、プログラミングでドローンを飛ばそう教室計画中/8月1日以降詳細発表



10月開催予定で、小学4.5.6年生を対象に、プログラミングでドローンを飛ばそうという教室を計画中です。
8月1日以降に詳細を発表いたします。

ご期待ください、ませ、、
  


2023年05月16日

志賀島、綿津見神の入江・勝馬浜を神話の話を聴きながら、ぷかぷかカヤックトレイル

7月1日(土)・8月26日(土)両日とも、午前の部9:00出発隊(〜12:00)/ 午後の部14:00出発隊(〜17:00)それぞれ二隊各11名限定募集中
参加費:¥12.000-
カヤック・パドル・ライジャケレンタル料・スポーツ保険・まさご屋使用料金(海が見える部.参加者全員共同・風呂・駐車場)含む
※まさご屋さんとプライベートビーチを一日海の家として使用可/別料金で食事も可。希望者にはメニュー送信

問い合わせ・申し込み:080-3984-4299/uminaka_yz@icloud.com 
まさご屋 HP https://www.fukuoka-masagoya.com/meal/

主催:志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ
後援:福岡市
https://www.city.fukuoka.lg.jp/shicho/koho/fsdweb/2023/0515/1107.html

 トレイルコース風景


まさご屋さん前・舞能ノ浜を出発
宗像大島を遠くに見ながら赤瀬沖へ
googl map 赤瀬
https://goo.gl/maps/ZFTqb8fpWMbNdkQN7


陸側からの赤瀬。赤瀬沖まで出ると海の中道から立花山方面が見える

海の中道の先、ちょっとみえにくい中央にコブ二つの立花山。右手に赤みを帯びた岩礁が赤瀬。

航行予定MAP

折り返して、志賀海神社沖津宮へ

小さな鳥居がある沖津宮

沖津宮上陸!  


2023年05月01日

勝立寺から崇福寺へ歴史遠足、黒田孝高・長政のキリスト教と徳川家康をテーマに講演


Rembrandt van Rijn 〜 Das Loblied des Simeon 〜mauritshuis
レンブラント・ファン・レイン〜 シメオンの讃歌 〜
黒田官兵衛孝高クリスチャンネームの由来、聖者シメオンを描くレンブラント作品


令和5年4月22日・13:00・天神日銀前.勝立寺集合

勝立寺鐘楼

梵鐘に刻されたイエズス会・アントン旧沢と日蓮宗僧侶・唯心院日忠による宗論、いわゆる「石城問答」の模様

【勝立寺】慶長八年1603.4月25日。妙典寺(現中呉服町)においておこなわれた、イエズス会宣教師・アントン旧沢と日蓮宗僧・日忠による宗論「石城問答」は日忠の勝利に終わる。長政の裁定により、イエズス会教会地が日蓮宗側に下げわたされ、勝立寺が建立されたそう。しかし、イエズス会側につたわる、黒田孝高シメオン、長政、孝高正室・照福院のイエズス会への親和的な姿勢。またアントン旧沢の1603年における赴任地は東北だとするイエズス会研究者・チースリク氏による指摘。日蓮宗僧侶・本田栄秀氏による、不確定な日忠の当時の動向についての指摘などから、「石城問答」は後世における創作のよう。なお、同寺には孝高生母兄弟の明石安正家の墓群がならびます。ふたりの甥・明石則全の子はイエズス会文書に登場する著名なキリスト教徒・明石掃門です。

勝立寺の明石安正家墓群


水鏡天神・天満宮、鳥居扁額は、鍛冶町(現天神3丁目)出身の32代内閣総理大臣・広田弘毅氏、中学生時代の手跡

【水鏡天満宮】水鏡天神・天満宮は庄村、現在の薬院辺りに鎮座した容見天神〔現・容見天神跡碑〕を黒田長政が遷座させたと、一般にいわれますが19世紀制作とされる九州大学所蔵の「福岡城下町・博多近隣古地図」には両社いずれも記入があることから正しくは、水鏡天神は容見天神から分祀された社といことかと思われます。分祠以前の同地には智福寺という寺号の寺がありました。同寺は慶長十九年1614に福岡藩ではじめてとなるキリスト教徒の処刑がおこなわれた地でした(「1614年度イエズス会年報」・『キリシタン研究』第19輯p178-84)

「福岡城下町・博多・近隣古図」部分。水鏡天神と容見天神


天神ビックバンで赤煉瓦館とならぶ川沿いに遷座予定の水鏡天満宮


アクロス下、新薬院川〔旧五十川〕沿いにのこる福岡市中と博多津中をわける石垣

【福岡城東取入口・升形門石垣】旧五十川と那珂川の合流点に博多津中から福岡市中にわたる東中島橋を渡ると福岡城東取入口・升形門がそびえていたそう。福岡側からみれば水鏡天満宮と勝立寺の間。博多側からみれば現中島町あたり。天保九年三月。筑前をおとずれた幕府巡検使は、升形門の豪壮さに「ここから既に城内か?」と案内の者にたずねたとか(「西与市左衛門様御尋被成候口上之覚」・『博多津要録_』1・巻5・9)。その升形門を中心に北は博多湾まで南は肥前堀・現国体道路まで5mHの石垣が築かれていました。

明治初期の升形門・東中島橋・博多湾から肥前堀へのびる石垣


【旧福岡県公会堂・貴賓館】国指定重要文化財・明治43年1910、第13回九州沖縄八県連合共進会に際し、来賓接待所を兼ねて建設。開館同年、閑院宮載仁親王・同妃智恵子様宿泊、明治45年1912.3月亡命中の孫文演説。4月、皇太子嘉仁親王逗留。その後、県の公会堂として利用。私、清田には県教育庁舎奥に建っていたという記憶あり。小中学生の頃、行政に関する質問で、たびたび、お役人さんを煩わせていましたが、たずねた記憶があります。なお、このうらがわにかつてあった松浦病院で青木繁は、一人さびしく息をひきとるのでした。


【アクア博多ビル・国際ホテル跡】昭和二十九年1954.2月来日したマリリンモンローが福岡で宿泊したのが、現在アクア博多ビルが建つ敷地にあった国際ホテル。明治通り、当時は貫線をわたったロイヤル花の木で、オニオンスープを楽しんだという話。


ビルの隙間に建つ福岡藩精錬所跡碑

【福岡藩精錬所跡碑】弘化四年(1847 )、島津家からのご養子さま。蘭癖大名として名をはせた福岡藩十一代・黒田長溥設置。嘉永六年1853にペルーが米国太平洋艦隊を引き連れて来航する以前、前年末に、老中阿部正弘に対して開国を建白しています。精錬所は現在でいう理化学研究所。さまざまな研究や物品の開発がおこなわれました。


【中洲国広稲荷】天保の頃。財政立て直し策の一環として、藩は未開地・中島町を歓楽街に整備。小祠が祀られていましたが天保五年1834中洲国広稲荷として整備されたとさ。詳細はレジュメご参照。ビルの谷間に鎮座する国広稲荷境内をリバレイン方面にぬける、、、


【鏡天満宮】鏡天満宮は、菅原道真博多上陸のさい、顔写したという鏡が神体だそう。道真は長の旅路からやつれた自分を知ったそうな、、。詳細、レジュメ参照


【綱敷天満宮】綱敷天満宮は道真上陸の折、漁人が舟の綱を輪にして敷物を作り休憩の場所にしたという伝説の地。綱は大陸で「船団」を意味する。貿易や船に由来する地名とも。


【豊国神社・神屋宗湛邸跡】現在の博多小学校全体が豪商で茶人・神屋宗湛邸跡だそうな。天正二十年1593十月末日。秀吉は、その一角に設られた茶室に参座。露地の松に一日、鷹がとまり動かなかったそう。豊国神社は、現在、二階屋でこじんまり。かつては画像・古写真のように、そこそこの境内があった。福岡市の博多遺跡群発掘調査では宗湛邸あと近くからキリスト教の聖具・メダイと十字架鋳型が出土。

豊国神社古写真

博多遺跡群から出土したメダイと十字架鋳型


【博多三傑の博多小学校交差点】大博多通りと昭和通りが交差する博多小学校交差点は、上掲「博多津中形成図」に記す、1.神屋宗湛邸〔現博多小〕、2.大賀宗伯邸、3.島井宗室邸と、戦国時代末期の博多三傑・豪商の邸が囲んでいました。

【呉服町交差点・沖浜.博多浜結節点の傾斜】
呉服町交差点に立つと南の博多駅側、北の博多湾側、両方向から緩やかに降ってくる傾斜の谷底になっていることがわかります。博多は江戸初期まで博多浜の沖に砂州で形成された沖浜つながり、ヒョウタンを平面にしたような地形でした。上掲「博多津中形成図」が示す、4.弥生時代以前に陸化、5.鎌倉時代から近世初頭に拡大した砂丘、6.12世紀初頭頃の埋め立て、7.12世紀頃の埋め立て(聖福寺建立時カ)8.13世紀後半の埋め立て、9.15〜16世紀の埋め立て、10.16世紀末〜17世紀初(小早川・黒田による埋め立て)の段階をへて沖浜・博多浜の両脇に形成されていた入江が埋め立てられていきます。呉服町交差点は、沖浜と博多浜を結ぶ6部分にあたり等高最低部にあたります。(『新修福岡市史特別編』自然と遺跡からみた福岡の歴史・「博多の地割りと地形変遷」大庭康時参照)

右.博多駅から緩やかに呉服町交差点へ下ると、緩やかに博多湾方面に上っていく大博通り

【石堂口・石堂橋、博多東の玄関口】
関ヶ原戦後、黒田が筑前に入部した当初、博多津中を整備するに辺り、東側を貫流する御笠川への架橋は石堂橋〔現石堂川の関所跡〕のみでした。西門橋が渡されるのはその後のことです。また、御笠川左岸、博多津中沿いには聖福寺承天寺などの鎌倉時代からの古刹にくわえて、正定寺海元寺などが移設されることで防壁をつくります。

御笠川左岸、聖福寺沿いを望む

幕末の石堂橋.、石堂口。橋梁は50m。左に一行寺、右に海元寺がならぶ


清田が立つのは孝高墓石前。四千字におよぶ、対朝鮮外交にあたり、聖福寺109代世でもあった景鉄玄蘇による墓碑銘が刻まれる

【崇福寺・黒田墓所】
崇福寺・黒田墓所には、東長寺に墓所をもつ二代忠之、三代光之、八代治高以外の歴代藩主の墓がならぶ。昭和25年1950、同墓所の全面改葬にともない、福岡市が調査したところ、四代綱政はミイラの姿で発掘されるのです。長政はじめ他の墓石の地下からは土葬にふされた遺骸、あるいは遺骨が出土するのですが、孝高墓の地下からは六文銭が入ったツボのみが出土とのことです(同年4月18日付 朝日新聞西部本社版夕刊)。孝高の兄弟中、篤信のキリスト教徒として知られる直之は、長崎のキリスト教墓地への埋葬を遺言しました。崇福寺の墓石地下にはみつからなかった孝高遺骸は、直之とともに長崎に葬られているのかもしれません。いまだ未解読の文書が膨大な数が眠るという、スペインやイタリアに所在するイエズス会文書の今後の解読に期待するところです。

講演会場・千代町公民館へ

演題:黒田孝高・長政のキリスト教と徳川家康
講演レジュメ

歴史遠足レジュメ  


Posted by Frco.Don at 00:00Comments(0)歴史遠足・講演報告