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競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2023年10月19日

令和5年10月15日香椎宮秋季大祭「流鏑馬神事」


正午・境内外.桜並木の流鏑馬馬場完成


流鏑馬人馬三騎そろい、弁財天社を左手に勅使道へ並足で、、


勅使道からニノ鳥居左袖たまりへ、、


たまりでお汐井をうけ、神馬ともに潔める、、


騎手拝殿へ、、


騎手、昇殿の上、玉串奉奠、、


綾杉にかかる日神、、




騎馬、本殿下になおり祝詞奉上、、





綾杉三巡


馬場を潔める、、


馬に馬場を見せる、、




三騎三走・九射、神威を射掛ける、、











  


Posted by Frco.Don at 10:16Comments(0)新・太宰管内史

2023年05月31日

志賀海神社・沖津宮風景


沖津宮祠

沖津宮祠への鳥居

舞能浜から沖津宮の島へ  


Posted by Frco.Don at 14:20Comments(0)新・太宰管内史

2023年01月14日

令和五年一月十四日志賀海神社・歩射祭「勝馬詣」

令和五年一月十四日志賀海神社・歩射祭「勝馬詣」

翌十五日の歩射本祭にむけて、山幸彦・ホオリ命を演じる、八人の射手が、神弓を綿津見神から授かるための通過儀礼・苦行の数々、、


夜明け前、海の中道から潮が上がってくる禊ノ瀬に入る


禊ノ瀬から上がると、本殿から境内摂末社を巡拝


百キロを超える稲藁の塊を背負い、表参道を御旅所まで、、、



志賀島北岸・勝馬 舞能ノ浜から対岸の沖津宮島へ

失った釣り針にかわる針を剣を鋳つぶして、何本錬っても、兄神・海幸・ホデリ命に許しをもらえない神話を再現するように、山幸彦・ホオリ命の八人の射手たちは、岩礁から飛び込み、ガラモという海藻を穫る神事を繰り返す。



日没前後、翌日の歩射で射手たちの矢のお世話をする「矢とり」の子供たちとかための禊



  


Posted by Frco.Don at 00:00Comments(0)新・太宰管内史

2022年02月28日

「名島水上飛行場」福岡飛行場・水上機専用

現在の福岡市東区名島、多々良川河口には「名島水上飛行場」福岡飛行場・水上機専用が
ありました。前回ご紹介した、リンドバーク夫妻が、愛機シリウスで着水した飛行場です。

昭和5年(1930)に開設され、同9年(1934)に閉鎖されて、現在の海の中道の付け根に
建設された、画像の米軍撮影航空写真に「GANNOSU]とある雁の巣国際飛行場に変わります。

同画像上「old nazima2/2」と記された部分に見える、小さく四角のコンクリートによる構造物と思われる
部分が格納庫などの飛行場施設であり、その前方の海上が水上の滑走路として使用されていました。


〜 花見deお知らせ 〜
〜 参加者募集開始/主催:志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・後援福岡市〜
カヌーで多々良大橋をくぐり抜け、河畔公園のサクラに「春」うらららら、、、、
3月26日(土)歴史とサクラの多々良川カヌートレイル・募集チラシページ
3月26日(土)歴史とサクラの多々良川カヌートレイル募集Facebookイベント


「乗換案内のジョルダン・花見特集2022」〜多々良川花見カヌートレイル〜
「ジモティー イベント・お祭り」〜 サクラと歴史の多々良川・カヌー花見トレイル〜
子供とおでかけ情報サイト「いこーよ」サクラと歴史の多々良川・カヌーお花見トレイル  


Posted by Frco.Don at 21:51Comments(0)新・太宰管内史

2022年02月27日

福岡城.花見で花の木ランチ1.ロイヤル花の木とマリリン・モンロー

1953年に福岡初の本格フランス料理店として開店したロイヤル花の木。その翌年、
マリリン・モンローと元メジャーリーガーの夫ジョー・ディマジオが新婚旅行で
福岡を訪れ、中洲の国際ホテルに宿泊。 その表向かいの「花の木」で食べた
「オニオングラタンスープ」がモンローのお気に入りに。

以来、「オニオングラタンスープ」はロイヤルにとって特別な、歴史的なメニュー
になったのでした。

花の木で「オニオンスープ」タイム最中のモンローとディマジオ


お知らせ:サクラの福岡城歴史散歩と「花の木」ランチ


お申し込み・問い合わせ
090-2512-4299/tahi_qz@ybb.ne.jp


FaceBook「サクラの福岡城と花の木ランチ」ページ
福岡地方サクラ開花予想3月22日

  


Posted by Frco.Don at 17:51Comments(0)新・太宰管内史

2022年02月16日

リンドバーグが多々良川へ!水上飛行場に愛機・シリウス着水

名島といえば、多々良川河口。多々良川河口といえば、「名島水上飛行場」。
1931年9月17日。北太平洋航路調査旅行中のリンドバーグ夫妻が愛機「シリウス号」で着すするのです、、、。



名島に着水した「シリウス」。後部座席に、リンドバークの奥さん・アン.モローの顔が、、、

〜 参加者募集開始/主催:志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・後援福岡市〜
カヌーで多々良大橋をくぐり抜け、河畔公園のサクラに「春」うらららら、、、、
3月26日(土)歴史とサクラの多々良川カヌートレイル・募集チラシページ
3月26日(土)歴史とサクラの多々良川カヌートレイル募集Facebookイベント


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「ジモティー イベント・お祭り」〜 サクラと歴史の多々良川・カヌー花見トレイル〜
子供とおでかけ情報サイト「いこーよ」サクラと歴史の多々良川・カヌーお花見トレイル  


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2022年02月15日

福岡城/鳥飼潟・黒田別邸から


奥村玉蘭『筑前国名所図会』千賀浦図

現在の1.5倍の広さがあった大濠公園。千賀浦・鳥飼潟・草香江などと呼ばれた。
東西は、現在の南当仁小あたりまで水面が広がり、福岡築城の頃、西の汀に鎮座した、
鳥飼八幡宮を現在地遷座させ、黒田別邸を建設。茶屋が設けられました。

千賀浦図は、ちょうど、黒田別邸辺りから福岡城を望む図。

【奥村玉蘭】宝暦11年(1761)生まれ。中洲中島町の醤油醸造元三代目。
寛政異学の禁の対象となり藩から睨まれることになる、亀井南冥・昭陽父子
の門に入り、父子が不遇に陥ると、自宅に招き、当時の博多の文化人が集う。
一族一門はこれに不安を抱き玉蘭を押し込め、強制的に隠居させる。玉蘭は
これ幸いと、太宰府に草庵を結び、筑前国中をくまなく歩き回り、10年余の
歳月をかけて『筑前名所図会』全十巻を完成させた。

サクラの福岡城・大濠を歴史散歩・ロイヤル「花の木」でランチ/4月1日
お申し込み・問い合わせ/℡.090-2512-4299/mail.tahi_qz@ybb.ne.jp

Facebook「サクラの福岡城・大濠を歴史散歩・ロイヤル「花の木」でランチ」イベントページ
  


Posted by Frco.Don at 22:19Comments(0)新・太宰管内史

2022年01月16日

〜たろう歴史小ばなし〜頼朝挙兵吉日を占う筑前住吉宮神官昌長/平家と対立する筑前住吉宮〜


雪の釧路湿原へ。出発前の牧場で。インストラクターの大久保さんと、、、

昨日の続編、たろうの歴史小ばなし、、、。頼朝挙兵の吉日を占う、筑前住吉宮・小大夫昌長の巻、その2
治承四年(1180)8月17日に源頼朝は、伊豆平家目代・平兼隆邸を襲い首をあげるのですが、その日を決行の吉日と占うのが
筑前住吉宮神官・住吉小大夫昌長でした。なぜ、筑前住の神官昌長が、遠く、伊豆での頼朝挙兵に立ち合い、挙兵の日取りを
占い、戦勝祈願までおこなうことになるのか。昌長は、伊豆へ流されていたのです。
保元三年(1158)八月。平清盛が大宰大弐に任官します。以降、平家は筑前そして、博多の権益掌握に動きます。筑前の
北部を貫流し博多へと流れ下る那珂川上流、岩門城(福岡県那珂川市安徳)の原田種直が目代(代官)に任じられますが、
那珂川流域から河口にかけて筑前住吉宮は社領を有していました。種直は当然のように、その掌握にかかったと考えられます。
住吉宮はまた、対宋、対鮮交易に当たっていましたが、対外交易独占という清盛の意を介して、ここにも、種直は介入したと
推測されます。筑前他の神社、香椎宮・筥崎宮・宗像社・安楽寺太宰府社はいずれも平家の保護のもとにありましたが、ひとり
住吉宮は、対立していたのです。
それら対立の結果として、「吾妻鏡」は、「佐伯の昌助と云う者有り。これ筑前の国住吉社の神官なり。去年五月三日伊豆の国に配流す。
是より先同祠官昌守、治承二年正月三日当国に配すと。而るに彼の昌助弟住吉小大夫昌長、初めて武衛に参る」と、記し、住吉昌助・
昌長兄弟が伊豆へ流されて、昌長が武衛、つまり、源頼朝にはじめて召された事を記します。その3へつづく、、、、


「博多往古図」福岡県立図書館/大田資料552号


〜 参加者募集開始 〜
カヌーで多々良大橋をくぐり抜け、河畔公園のサクラに「春」うらららら、、、、
3月26日(土)歴史とサクラの多々良川カヌートレイル・募集チラシページ
3月26日(土)歴史とサクラの多々良川カヌートレイル募集Facebookイベント

乗換案内のジョルダン「花見特集2022」で紹介された!
多々良川カヌートレイルの桜

名島橋・JR・西鉄橋梁南側
  


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2022年01月15日

〜たろう歴史小ばなし〜頼朝挙兵の日を占う、筑前住吉宮の小大夫昌長の話


雪の釧路湿原へ、愛馬テトと初陣前のたろう冠者

さて、さて、たろうの歴史小ばなし、、、。頼朝挙兵の吉日を占う、筑前住吉宮・小大夫昌長の巻、その1
来週辺り、大泉頼朝さん、挙兵?。ホンモノの源頼朝さん。佐殿の平家打倒の最初の挙兵は治承四年
(1180)8月17日でした。その日、平家目代(代官)・山木判官・平兼隆邸を、100余騎で襲い、その
首を上げると、その後の石橋山の合戦へと歴史は流れはじめます。この平兼隆邸襲撃の日取りを決める
占いをおこなったのが、筑前の住吉宮神官・住吉小大夫昌長でした。昌長が頼朝に召されて、挙兵の
吉日を占ったのが11日前の8月6日。挙兵前日の16日には、戦勝祈願の天曹地府祭の斎主をつとめます。
その神事後、佐殿は手づから神鏡をとり昌長に渡したといいいます。帰還は希まぬという覚悟を示した
行動でしょうか。天曹地府祭は、閻魔王の役人・冥官に祈るものだそうで、不思議なお祭りなのです、が、
では、ところで、なぜ、ドーして、どういうワケで筑前の住吉宮の神官・小大夫昌長が、遠く、頼朝が
配流生活を送っていた伊豆にいたでしょう。それは、また明日、、、、


〜 参加者募集開始 〜
カヌーで多々良大橋をくぐり抜け、河畔公園のサクラに「春」うらららら、、、、
3月26日(土)歴史とサクラの多々良川カヌートレイル・募集チラシページ
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乗換案内のジョルダン「花見特集2022」で紹介された!
多々良川カヌートレイルの桜


カヌーから見上げる名島橋  


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2022年01月13日

ビビートまりお「リスペク風神」が好きなたろうは、ドサン馬・テトと雪の中


雪の日は「リスペク風神」を歌いながら跳ねる!

さて、多々良川小ばなし、その2「名島城」

天文年間、大友一族・立花鑑載が立花城出城として築いたと、、、
天正15年(1589)、九州平定を終えた豊臣秀吉が小早川隆景に筑前、筑後、肥前の一部を与え、中世城郭としての
海城として改修。肥前名護屋城が落成するまでの間、秀吉による朝鮮出兵構想を支える最前線の城としての役割を、、、。
慶長5年(1600)。関ヶ原戦後、黒田が入るが、福岡城築城に同城資材が使用され、慶長7年(1602)廃城。なのだそーーな。

貝原益軒『筑前国続風土記』糟屋郡・名島弁財天社に、、、
今の社東いと高き山を神宮が峯と云う。此山則いにしへ社ありし所也。一説、神功皇后ののぼらせ給ふ峯なる故に、
神功が峯と云。小早川隆景、名島の城を築れし時、今の所にうつさる。神宮峯の南を鳥居峯とといふ。是鳥居を建
たりし所也。(城ありし時は南の丸といふ)元禄年中、国君より社をむかしのごとく山上に移され、神殿を綺麗に
改めて作りて、石の鳥居を立給う。

と、あるのです


昭和初めの頃の名島城後。左側から、中央の九州電力名島火力発電所の煙突の後ろにつづく丘陵。奥は立花城の立花山。
手前は多々良川河口のヨットハーバー

〜 参加者募集開始 〜
カヌーで多々良大橋をくぐり抜け、河畔公園のサクラに「春」うらららら、、、、
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多々良川カヌートレイルの桜
  


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2022年01月12日

今日は「スキーの日」たろうは愛馬・とトテ(ドサン馬)とトレッキング。多々良川は快晴


「鶴居どさんこ牧場」で、銀世界の釧路湿原へのトレッキングへ駆け出る前のたろうと、九州多々良川で、冬の晴天に恵まれての
カヌートレイル

1月12日。今日は【スキーの日】なのだそうで、、、
明治44年( 1911)1月12日にオーストリア陸軍のレルヒ少佐が、新潟県高田(現在の上越市)の陸軍高田歩兵第58連隊の青年将校に、
日本で初めてスキーの指導を行なったことから制定されたのでした

さて、今日の多々良川小ばなし、、、、。
多々良川。その名のワケ

三韓征伐に際して、神功皇后が精錬技術をもつ韓鍛冶(からかぬち)を招聘。多々良川で産する砂鉄をもちい蹈鞴(ふみたたら)
で精錬させた。「タタラ」という語、自体が精錬技術を指しもし、多々良川と名された、と、伝わる。(水系河川整備基本方針 p2より)

との話でした


韓鍛冶

〜 参加者募集開始 〜
カヌーで多々良大橋をくぐり抜け、河畔公園のサクラに「春」うらららら、、、、
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2019年04月01日

新帝元号「令和・れいわ」

「令和・れいわ」

万葉集 巻五にある、神亀から 天平年間にかけての数年、筑紫歌壇を形成した大宰帥・大伴旅人、
少弐・小野老 、筑前国守・山上憶良 、造観世音寺別当・沙弥満誓、 娘子児島、大伴坂上郎女
などらによる梅花の宴三十二首の詞書より。

筑紫由来の元号と相なりもうした。
まことにめでたく、誇らしき仕儀に相成り候
奇しくも、孝高公も太宰府での連歌で「松梅や末永かれと緑立つ山より続く里はふく岡」と


画/黒田孝高「夢想連歌・松梅や」


画/加藤一純 筑前国続風土記付録「西都聖廟・安楽寺太宰府天満宮」
  


Posted by Frco.Don at 19:52Comments(0)新・太宰管内史

2016年12月09日

昭和に野尻氏が奪還「清田城」大分・小岳山上の城郭の話

★昭和に入り、野尻氏に奪還された、中世までは「清田城」だった大分・小岳山上の城郭の話
                              
豊後竹田から大分市内へと入る戸次川流域に小岳山があります。この山は中世城郭跡でもありまして、
古くは野尻氏の居城でした。
                              
頼朝鎌倉開府後に大友氏が豊後に下って来ると、地生えの野尻氏を追い、戸次氏が入り清田を名乗ります。
その小岳山には、現在、近世城郭を真似た天守が建ちます。もう鬼籍に入られましたが、元大分県議の
野尻さんが建てられた疑似城郭です。
                              
四半世紀前。清田の故地と云う事で小岳山を初めて訪ねた時に、なにゆえ、中世城郭跡に、近世城郭の
天守とおぼしきものが建つのか、不思議さにひかれて登ってみると、野尻さんのご自宅でした。野尻さん
は、「ま、上がれ」と、初対面のわたくしと前の奥様と、ふたりを気さくに声をかけ、天守一階の居間に
通してくださり、お茶とお菓子を振る舞ってくださいました。
                              
そして仰るのです。
「清田姓のヤツが、よく訪ねて来る、よ。で、ボクが奪還した話をしてやるのさ」、と。
野尻さんの表情は、たまらない楽しさにつつまれておりました。

★城址案内板・元大分県会議員野尻哲氏建立 より
源頼朝の時代、緒方三郎惟栄の次男野尻次郎石見守惟村が小竹を開き、700年前鶴ヶ城主戸次重秀 の
長子清田太郎直持が小岳城主となり、最後は400年前野尻紀伊守惟村が城主となるが、天正14年
乙津川で戦死し、小岳城は焼かれた。


  


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2016年02月23日

太宰府天満宮参道麒麟像とグラバーとキリンビールエンブレム

               
キリンビールのエンブレムは、トーマス・グラバーが太宰府天満宮を訪れ、同宮参道の麒麟像を気にいった事で、現在の麒麟を象ったモノになったと云う話がネット上で氾濫しています。その典拠を確かめたく思い、太宰府天満宮研究所へ電話を入れ問い合わせると、学芸員さんから下記のコメントとともに、画像に示しています天満宮機関紙「天満宮梅風/麒麟とトーマス・グラバー」(天満宮禰宜・味酒安則著)ページをデータで送って頂きました。                                       
しかし、下記に抜粋した同頁中のグラバーと麒麟像についてふれる部分には、その典拠・論拠について述べるところがありません。そこで著者の味酒安則天満宮禰宜さんに電話を入れ、同部分の典拠・論拠について問い合わせた所、グラバーの日記に記載があると聞いたとの事でした。                          
そこで、福岡県立図書館にグラバーの日記を書籍にしたものは存在するのか問い合せたところ、無いとの回答でした。
                
更に、長崎市のグラバー園付きの学芸員さんに電話を入れ問い合せると「グラバーは日記どころか、筆無精でほとんど文書は伝わらない」「太宰府を訪問したことを裏付ける記録など、証拠はない」「キリンビール云々の時代は、まだまだ外国人が居留地を離れるのは難しい時代だ。仮に行動が許される地域以外を訪ねたのであれば、許可されたことが公文書に残っている」などの回答を得ました。
                           
以上、報告です。
                   
《太宰府天満宮研究所学芸員さんコメント》
麒麟像とキリンビールのお話については、各所に諸説ございますので、
天満宮の場合も、その一説ととっていただけると幸いでござす」                          
《「天満宮梅風/麒麟とトーマス・グラバー」中の該当部分抜粋》
グラバーは、この麒麟に一目惚れしてしまい、譲ってほしいと天満宮に懇願しました。もちろん神社としては神納されたものですから拒絶したのですが、彼の心は収まらず、この麒麟のレプリカを三躯作って、長崎へ持って帰ったという話が伝えられています。
彼は、この後、彼の友人の米国人が横浜にもっていたビールブルワリーを買収して、新たに付けた名前が「キリンビール」でした。」




  


Posted by Frco.Don at 21:41Comments(0)新・太宰管内史

2016年02月11日

島井宗室店舗ご案内


















本能寺の変に居合わせた島井宗室が持ち出したと伝えられる『空海 千字文』

【島井宗室】~元和元年(1615)

《島井氏出自》
対馬上津八幡宮神職
・ 毛利輝元に「公家の出か?」と聞かれて「ご勘弁を」と応えた
・ 対馬島井党 天正初年、島井右衛門尉、柳川権之助に暗殺される
党 共同体 宗室、島井右衛門尉暗殺以前に博多移住か
・ 対馬瑞雲寺 宗室、瑞雲宗室・虚白軒瑞雲庵と名号る

《年譜》
・ 天正4年(1576)大友宗麟より筑・豊・肥前、後の六カ国の自由往来、博多での諸役の免除を受ける
・ 博多津中での事件など宗麟配下の代官に情報を入れる
・ 天正初年、秋月種実に肩衝「楢柴」を召し上げられる
・ 天正10年(1582)、1.19日神屋宗湛と共に上洛、織田信長に謁見
          6.2日本能寺のの変 空海 千字文を持ち出す 
・ 天正15年(1587)秀吉「太閤町割り」に宗湛と協力、上浜口町に屋敷を拝領
・ 天正16年(1588)秀吉 朝鮮出兵で遣朝鮮使節、正使・聖福寺僧 景轍玄蘇、副使・宗義智に同行
・ 天正19年(1591)大坂城で秀吉、家康を前に朝鮮の地理を説明
・ 文禄1年(1592)以降、博多の自治の復活を石田三成に訴える/
・ 慶長6年(1601)福岡城築城に出資
・ 慶長15年(1610)神屋宗湛からの養子・徳左衛門に遺言状
・ 慶長17年(1612)崇福寺塔頭瑞雲庵再興

《商録》
・ 永禄9年(1565)8月、大友宗麟へ博多織20反納品
・ 永禄10年(1566)6月、豊後府内城館で二汁五菜を馳走され、朝鮮物産の商談をおこなう
・ 同年9月、対馬問屋博多屋から貨物(朝鮮物産か)が博多・宗室の店に届く代銀を支払い定期的な朝鮮物産の引き受けを約定する
・ 永禄11年(1566)2月釜山へ、3月京畿道へ、5月兀良哈(オランカイ)で商品購入、6月、商品を船便で大坂へ回送、利益を上げ船頭らに対して特別賞与を与える
・ 天正7年6月5日、朝鮮に向けて立つが、対馬府中(厳原)で大量に売り出している南蛮品が朝鮮で仕入れるよりも安いことを知り、買い求め博多へ回航。それらの南蛮品のうち、トタンが国内では品薄だったことから大坂で売った
・ 同9月海路、兵庫に上陸、道中、二、三の商談を行い、大和郡山に足を伸ばし和泉屋に商品を販売。堺のアカネ屋に一泊すると当主・太郎右衛門が仕切銀五十一貫三十目の借財を申し入れて来たことから応じた

《商材》
・ 博多練酒.博多織.南蛮物.朝鮮品.投銀.硫黄.茶道具.武具

《取引先》
大友宗麟、織田信長.豊臣秀吉.天王寺屋道叱.対馬梅岩.博多屋宗伝  


Posted by Frco.Don at 16:35Comments(0)新・太宰管内史

2013年07月12日

筑紫館(ちくしのむろつみ)太宰鴻廬館での七夕祭

萬葉集の巻十五には、天平八年(七三六)に発遣された、阿部継麻呂を大使とする遣新羅使一行が遺した一四五首に亘る歌が収められています。

なかに、旧暦でいえば秋となる七月十五日に行われていた七夕祭の歌が、往路中、滞在した筑紫館(ちくしのむろつみ)、即ち、鴻廬館で詠まれたものとして見えています。

一行は、難波から太宰府を目指す途上、周防灘で遭難してしまいます。当時、那の大津と呼ばれていた博多湾を出て後には、壱岐島で随員の一人・雪連宅滿が「にわかに鬼病に遇いて死去」します。目的の新羅に着きはしましたが、外交使節としての礼を受けることができず、大使の阿倍継麻呂も、失意の復路途上に病没してしまいます。まことに、不運にとり憑かれたと例えられる道行でした。

筑紫館での七夕祭の歌は、「七夕に天漢を仰ぎ觀て、各の所思を陳べて作れる歌三首」との詞書があります。一行は春には筑紫へ入り、順風を待つのですが、季節は巡り、秋に及んで七夕の夜を向かえたのでした。

三首は、、、

   秋萩ににほへる吾が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば
   年にありて一夜妹に逢ふ彦星も吾れにまさりて思ふらめやも
   夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ舟人を見るが羨しさ

秋萩が匂い立つ私の袖を濡らしても君が乗る船の綱を取ろう、年に一度恋人と逢う彦星も私ほどの思いは持っていないだろう、月夜の夕べに影をたて天の河に船を漕ぐ人の羨ましいことよ、ほどの意をのせ、歌っています。いずれの歌も、困難な旅の宿所に発ったため息とも思える調べです。

筑紫館の時代。七夕には、「棚機女」の祭が行われていたといいます。五色の糸や布を飾り、灯明を灯した神棚に山海の幸を供えたうえ、雅楽を奏で、歌が詠じらていました。

新羅使の面々も、祭文を唱えるとともに、ため息となって消え入るような、ここに並ぶ歌を詠じたのかもしれません。月夜であったか、星の夜であったか。筑紫館建つ波上の丘から見えるはずの、那ノ大津・博多湾と大海を扼して、細い孤線を描く海ノ中道は、闇に、その白砂を少しは見せていたものか。使いとしての覚悟は変わらぬものの、その指す先きが都であればとの思いは、風を待つ日月のなかで、一行のいずれもが心に思ったのでないかと推し量れます。

天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都にこと告げやらむ

いよいよ、新羅へとむけて大海へと乗り出す日を前に、一行の誰かが望郷を歌うのでした。


  


Posted by Frco.Don at 06:24Comments(0)新・太宰管内史

2013年05月03日

江戸時代のドンタク・松囃子-2 年行司出仕 町内会長の出番

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前記事に続けて、「筑前名所図絵/奥村玉蘭」から江戸時代の博多ドンタクの姿を描いた「松囃子図」のうち、今日は「年行司出仕」との題字があるものです。





年行司は、戦国時代から江戸時代までの間、博多にあった、独特の行政上の役職です。
自治都市博多を代表する行政官としての役職で、江戸時代には年番で、徳望がある商人が選ばれ、その役に就いていました。

藩庁への御用銀(税)納入の世話のほか、自治に関する行政上の責任を担い、現代で言うところの自治会長総代と云う所です。

江戸時代の博多ドンタクは、博多商人が正月に松囃子の行列を仕立てて、福岡城内に藩主を訪ね、新年の慶賀を寿ぎ挨拶を行った後、博多津中内を回るというものでしたが、この図は、松囃子の代表として年行司が福岡城内での藩主への挨拶を行っていたことを物語っているものです。



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Posted by Frco.Don at 06:51Comments(0)新・太宰管内史

2013年05月02日

江戸時代のドンタク・松囃子-1 客の図 軒先でゲロる図

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図は奥村玉蘭が文政4 年(1821)に完成した、筑前国一円を取材した地誌「筑前國名所図絵」中にある博多ドンタク港祭りの原型である「松囃子 」の図で、特に「客の図」とタイトルがあるものです。

「筑前國名所図絵」は、全十巻からなり、福岡・博多の両津中(当時福岡津中/博多津中と福岡・博多の両地域を呼んでいました。)と。 筑前国内十三郡の名所や古跡などについて、写実的な風景の絵図と書籍や古老からの聞き取りなどを記しています。

奥村玉蘭は、博多津中中島町の醤油醸造元の旦那さんでしたが、奇行が多く、終いには旦那さんであることを廃されています。晩年は太宰府の別荘に住まい、詩画三昧の生活を送ったと言われています。

松囃子は、博多町人が藩主黒田公へ新年の挨拶に城中へと登っていたものです。開催が、ゴールデンウィーク中になったのは戦後のことかと思います。




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タグ :櫛田神社


Posted by Frco.Don at 18:12Comments(0)新・太宰管内史

2013年05月01日

博多どんたくの起源/江戸時代の松囃子

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博多どんたくの元々の形は、博多商人の代表が、藩主である黒田公に年賀の挨拶を行っていた「松囃子」です。

貝原益軒の「筑前國續風土記」は、「松囃子」の起源について「治承3年(1179年)に没した平重盛を追悼するため始まった」としています。

どんたくを祭行する櫛田神社は平清盛が創建したと考えられ、清盛の子・重盛追悼が、その起源という話しは、納得できるものです。

また、戦国時代末期の豪商・神屋宗湛は、その日記に、筑前守として名島城に入っていた小早川隆景が、松囃子の訪問を受けたと記しています。



《奥村玉蘭/筑前名所図絵・松囃子 年行司出仕の図(年行司は博多の自治組織の長)》



《奥村玉蘭/筑前名所図絵・松囃子 三福神の図》



《奥村玉蘭/筑前名所図絵・松囃子 卒態の図》



《奥村玉蘭/筑前名所図絵・松囃子 通物の図》



《奥村玉蘭/筑前名所図絵・松囃子 客の図》




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Posted by Frco.Don at 19:37Comments(0)新・太宰管内史

2013年04月21日

八重の桜21回の頃の福岡藩/筑前勤王党粛正


それまで薩摩と連携し、長州に匿われていた五卿を太宰府に受け入れるなど、筑前勤皇党所属の藩士を中心に、倒幕にむけた動きを先導していた感があった福岡藩でしたが、慶応元年(1865)夏に突如として藩論が変わり、筑前勤皇党の藩士は捕縛拘束され、西郷隆盛などに長州征伐の非を説くなどした、家老加藤司書以下7名切腹、月形洗蔵以下14名斬首、その他流刑、謹慎100名という処断を受けます。

俗に言う「乙丑の獄」といわれる政変ですが、これによって福岡藩は薩長土との繋がりをもった人材を失ってしまいます。

《五卿受け入れた太宰府天満宮内の延壽王院/山門奥に見えるのは五卿の碑》




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Posted by Frco.Don at 21:08Comments(0)新・太宰管内史