晩年を津屋崎で暮らした黒田官兵衛

Frco.Don

2017年01月19日 20:48

黒田家が筑前へ入った後は、官兵衛孝高は太宰府の隠居屋で暮らしたと伝説的に
言われていますが、逝去する慶長八年三月までの三年間のうち、半分は京都にお
りました。

筑前へ戻ったあいだは、そのほとんどを津屋崎を中心とした宗像郡で過ごしたと
思われます。

黒田筑前入部後の官兵衛書状は、太宰府に伝わるものは十通。津屋崎を中心とした
宗像郡関連の書状は三十通を超えています。筑前国続風土記など地誌類への官兵衛
に関わる記述をくわえると宗像郡関連の項目は四十を超えます。

福岡市博物館新収蔵の官兵衛の書状の一通を紹介します。津屋崎郷中宛です。今で
いえば津屋崎町内会宛と云うところです。

黒田水軍の長、松本勝重と、おなじく水軍の将・高原次郎兵衛を津屋崎に配するた
めに、その居宅を用意して欲しいという内容です。


画像は、慶長7.1.9付 官兵衛発 松本勝重宛
内容は以下です。
碇の苧麻(からそ・ちょま)、船の帆・舵について指示。
苧麻の払い帳を養心(官兵衛末弟・津屋崎在)に遣わしたと伝言。
与一郎(?)の船の舵の製作状況はどうだ。  ローマ字印



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