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競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2024年02月12日

初春令月、風和ぎ梅咲く旧暦元日」jrと渡船を乗り継ぎ.香椎・宇美・志賀海三社詣

令和6年2月10日(土)7:30 香椎宮楼門前に集合。かなり早い!

天平二年正月、帥・大伴旅人邸での詠歌をまとめた、万葉集巻五・梅花宴三十首の詞書に「時に初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き」とあります。元号令和の出典でもありますが、ここにあるように正月は梅花開く頃でした。梅ほころぶ旧暦正月・元日2月10日にJRうみなか線と福岡市営渡船を乗り継いでの香椎宮宇美八幡宮志賀海神社三社詣でした、、


香椎宮、、
本殿へお参りする前に、御田祖、大伴武以大連を祭神に祭る摂社・早辻神社へ。天平二年730二月、大伴旅人帥着任二年後に、武以大連末裔・大伴国綱が香椎宮司に着任。(『太宰管内志』筑前之九・糟屋郡上)。旅人が帥にあるあいだ香椎宮は大伴が祭祀をつとめる。旅人室・大伴郎女、妹・坂上郎女なども。のち大伴は、伴、そして御田と苗字を変える、、


鶏石神社と勅使来迎標石
鶏石神社は『古事記』天岩門開き段に出てくる常世の長鳴鳥が祭神。創建は、福岡藩が奨励した養鶏をおこなう農家の組合か仲卸業者によるものと思う。
勅使を迎えたときの待機場をしめす標石は、御休息所・御手水所・御祓所・御脱剣所・衛士居所の五つが境内に建つ。 画像は拝殿へ昇る石段下の御手水所を示す標石


ぐるりと周り、御神木・綾杉正面へ、、
神功皇后にまつわる伝説はそこそこに、綾杉前では大宰帥、筑前守はじめ九州へ下る役官が、着任報告の参拝に際して宮司から「綾杉挿頭」を授かることについて、、、


【綾杉挿頭・史料】
「筑紫の国に到れば、例に先ず架襲の、宮に参謁づ、架襲は可紫比なり」 
『筑前国風土記逸文』仁和寺本『萬葉集註釋』卷第四,六九五七番歌條

隆家卿大宰帥に二たひなりて後のたひ、香椎御社にまいりたりけるに、神主こと
のもとゝて、杉のはをおりて、帥かうふりにさすとて、よめる。 神主 大膳武忠
ちはやふる かしゐの宮の 杉の葉を 二たひかさす わが君そきみ 
『金葉和歌集』藤原隆家 帥任期 長和三年1014〜寛仁三年1020/長暦元年1037〜長久三年1042
 
筑前国にて、香椎宮の祭の日、梅花をさしてよめる、国の例にて、冬は杉をさして、前の守も必ず歌よめる
年ごとに 匂いまされる 梅の花 おなし色にて すきをかさゝむ 
源道済 長和四年(1015)大宰少弐着官『源道済集』

本殿へ、、
去年遷宮を終えて、本殿はピカピカ。香椎廟と称されたこと。廟は大陸風に墳墓指すこと。神明造りは神宮他、八幡造りは宇佐神宮他、住吉造りは摂津住吉社・筑前住吉社ほか、全国に見られるが、正面方向と別に本殿左右に破風をもつ香椎造りは、ここ香椎宮が唯一だということ、など。大陸風に廟と称されたこととあわせて、外国使節の来招時、最初に迎える施設として特殊な造りを誇ってのことかとおもわれる。


福岡藩七代継高寄進の鳥居をくぐり、仲哀天皇古宮跡へ、、
香椎という地名については、住吉大神が神功皇后の口を借りて放たれた「一道にゆけ」という呪詞により、身罷った仲哀天皇の遺体を収めた樫の棺が香ったところからという俗説がある。一方、香椎、また粕屋は、古代朝鮮語で首都をいう「カシヒ」だという説があることを説明
また、聖武天皇即位同年、神亀元年724の香椎宮の創建は、朝廷による神社統制政策の仕上げであった。以後、志賀海神社は香椎宮傘下として管理される。香椎宮の春秋の大祭には、志賀島の海人たちは香椎宮へ贄物を献上し舞を奉納。その衣装が古びれば、官費の拠出がおこなわれた。現在でも大祭には志賀海神社から使者がたつ。その関係は、神社統制政策が進んでいく過程の証、、

表境内の弁財天祠により、JR香椎神宮駅へ8:57発宇美行き乗車。宇美駅9:27着


宇美八幡宮奥宮・胞衣ヶ浦
奥宮・胞衣ヶ浦への途中、宇美川にかかる橋。東の空を望むと、若杉山と砥石山の間にショウケ越。その向こうには穂波・大分八幡宮、そして田川・香春神社、更に東には宇佐八幡宮。博多湾に面した筥崎八幡宮から、宇美八幡宮、大分八幡宮、香春神社、宇佐八幡宮と東西一線上に鉄の神でもある八幡神がならぶ(香春社も八幡社系)
胞衣ヶ浦は、神功皇后、応神天皇出産の際の胞衣を埋めたとされる聖地。安産を願い、ここに積まれた石を持ち帰り、出産後にはお礼参りとともに石を戻す

八幡宮map


宇美八幡本宮へ、ウメも開く


自由時間。境内宇美八幡茶屋で子安餅・境内外の酒蔵「萬代」宇美町立歴史民俗資料館もよい、、、
楠のウロにふくろうの子が入るのは夏、、、


11:35JR宇美駅発香椎行き →12:05香椎着 →乗り換え→12:09発.西戸崎行き→12:29JR西戸崎着 →乗り換え→12:45西戸崎発市営渡船→13:00志賀島


志賀海神社参道半ばの、御旅所・宮司宅.矢場
御旅所は秋の国土祭りで、二年に一度、神輿が巡幸。細男の舞が奉納される。宮司邸横の矢場は、現在、仮のもの。本来、高校の弓道部が持つような矢場がある


禊の瀬と、立花山を望む遠景
夏でも真冬でも、志賀海神社の神事は、ここで神職が禊をおこなうところからはじまる。遠景の立花山は、少なくとも、磐井の時代まで遡り、イザナギ・イザナミの磐座としての呼称「二神山」と呼ばれていた。そして海の中道を介して、イザナギ御子神・綿津見神が志賀島に鎮座する。立花山・海の中道・志賀島に渡る、海・空・山野はイザナギ神話の空間、、、


参道のウメと本殿前


今宮社と勝馬表津宮と本殿・綿津見神
今宮社の祭神は「故、阿曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり」とある、宇都志日金拆命。今宮社は、本殿に対して今宮ではなく、かつて志賀海社が鎮座した故地という志賀島北岸の勝馬にある表津宮に対して今宮。つまり今宮社にたいして、表津宮が古社。この位置的関係は、天智・天武朝の頃から始められた神社の統制政策の過程を残しているのではと推測される。本来、阿曇は宇都志日金拆命を祖神として祭っていたが、同神格上位に綿津見神が配置されることにより、全国的な統制の枠のなかに組み入れられた、と、、、


表津宮

と、いうわけで解散。志賀海神社参道「和カフェ」で食事、、、
おつかれ様でございました、、、、、




次回予告、、  


Posted by Frco.Don at 19:03Comments(0)歴史遠足・講演報告

2024年02月12日

女こそ重要、平安社会/道長「望月の歌」への暗喩/式部日記から元輔セリフ・伊勢物語・万葉集から

〜光の君へ 第6回「 ふたりの才女」〜

冒頭、水鏡に映る道長の顔に見入る、まひろ式部。
『源氏物語』には、政敵、右大臣六女、東宮時代の朱雀帝の寵愛を受けた「朧月夜」との恋愛が原因で、須磨へ流されるごとく隠退を余儀なくされた源氏へ、妻の紫の上が贈る歌があります、、


 
別れても 影だに止まる ものならば 鏡を見ても慰めてまし
(たとえお別れしても、あなたの影がとどめる鏡をのぞき、お会いできない寂しさを慰めます)

為時が「そなたが男であれば」と嘆き、「女でも役に立つことが」と、まひろが答えます。倫子のサロンへ通うことを続ける意思を
まひろが明らかにする場面

女として女房・紫式部が重要な役割を担っていたことは、藤原実資が日記『小右記』長和二年五月二十五日 条に伝えています

資平を去んぬる夜密々皇太后に参らしむ。東宮 御悩みの間、仮により不参の由を啓せしむ。今朝帰り 来たりて云わく、去んぬる夜、女房に相逢う(越後守 為時の女。此の女を以て前々雑事を啓せしむるのみ)。 彼の女云わく、東宮の御悩み重きにあらずと雖も、猶 御尋常ならざる内、熱気いまだ散じたまわず。亦左府(道長)聊か患いの気あり、てへり」

こうして、実資は越後守為時の女である女房つまり、紫式部を通じて、皇太后(一条天皇母・彰子)に雑事を申し上げていたこと、左府・道長についての情報を得ていたこと、を、記録しています

兼家が、唐突に道長に対して源倫子の婿になれと進めます。この時代、結婚は嫁取り婚ではなく、婿取り婚が一般的でした。道長が倫子と結ばれたのは事実です.その仲人役について「光の君へ」は、兼家を設定するわけですが、道長姉詮子・東三条院だといわれています


倫子父・左大臣源雅信は、道長を婿にとることに反対だったようですが、母・穆子は道長の才を見抜き倫子が道長と結ばれることを強く願ったと『栄花物語』は述べます

隆家邸で催された漢詩会では、藤原公任作について、まひろ式部と今回が初登場となる桔梗納言の評が示されます


「白楽天のような歌いぶりでございました」とまひろ。「むしろ、白楽天の無二の親友だった元微之のような闊達な歌いぶり」と桔梗納言。ここでふたりが名をあげた唐の詩人・白楽天と元微之については、『小右記』に実資が記録して、今に伝わる道長の「望月の」云々の歌との関わりが暗喩としてあるやうな、、、。白楽天、元微之の名をだしての、ふたりの評に隠される喩えについての答は、これから触れられることもあるかもしれません

父・清原元輔が桔梗納言にたいして、「出しゃばるな」的なことを言います。
これは、『紫式部日記』に

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ

清少納言は得意に漢字を使うが、漢文の知識は未熟。勘違いで「自分は人と違うん」と思い込んでいるだけで見劣りする。ひとときの間ちやほやされても、そのうちにおわる

と、式部が書く清少納言への評価を、かわりに元輔に言わせています

漢詩会での、はからずもの久しぶりの再会に道長がまひろ式部へ贈った歌は、

ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし 恋しき人のみまく欲しさに

『伊勢物語』
ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 大宮人の 見まくほしさに
(神が敷く結界も破り、都人であるあなたに会いたい)
『万葉集』
ちはやぶる 神の斎垣も越えぬべし 今はわが名は 惜しけくも無し
(神が敷く結界も破り、あなたに会おう。わたしの名などどれほどのものか)

からの元歌取り。ドラマオリジナルの歌作のようです

記事内のリンクに不具合がある場合には、ご一報いただけるとしあわせです。
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〜 光の君へ 〜次回予告Movie

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2024年02月05日

月と式部/道長の筆跡・乗馬/官位etc

〜光の君へ 第5回「告白」〜

月の夜、三郎道長とまひろ式部が再会するのは、満月照る森深い社殿の一角のような場

『源氏物語』〜五十四帖 夕顔〜に身分を隠しての、夕顔という女性との光源氏の逢瀬が描かれます
「八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋」での逢瀬で、源氏の夢にもののけがあらわれると、夕顔は、はかなく息を絶やすのです、、

出会って以来、身分を隠してきた二人が、それぞれ右大臣・兼家三男道長、従七位下(前後の設定か?)散位・為時娘と、改めて確認する場も満月の夜が用意されたワケです。月光が足元を照らすなか、心に思う三郎道長の兄が母を殺した道兼であった事への戸惑い、悔しさ、与えられた運命の残酷さにまひろ式部が嗚咽する姿には、はからずも落涙を誘われるのです



史実上の式部母の死は、式部の弟が生まれて間もなくとされています。産後の日だちによる落命のようです。史実とは異なる設定で描かれていると知りながらも、涙を誘われるとは、物語、フィクションの力を改めて知るのです

道長は、まひろ式部へ、満月の夜、訪ねると書をよこします。堂々とした筆跡で復元された道長書状がアップで登場しました。
道長は、世界最古の直筆日記『御堂関白記』を伝えます。陽明文庫蔵・国宝。たしかに堂々とした筆跡

道兼によるまひろの母殺しを知り、まひろをその場に残して邸へと騎乗で戻る際の姿は様になっていました。柄本佑は相当、乗馬をやっているなと思うわけです

陽明文庫蔵「御堂関白記」

ところで、ここ、あそこと、今日は位階について語られるシーンが、いくつかありました、
朝廷のどの職「官職」につけるかは身分「位階」次第です

太政大臣「正一位」「従一位」。左大臣「正二位」、右大臣「従二位」、大納言「正三位」、中納言「従三位」。これら「正一位」から「従三位」までがいわゆる「公卿」。上流貴族です

「正四位上」「正四位下」「従四位上」「従四位下」「正五位上」「正五位下」「従五位上」「従五位下」。こちら、中流貴族、「昇殿人」とよばれ内裏清涼殿南廂・殿上の間への昇殿を許された人々。時代が降り、承徳2年1098、天承2年1132になると、源義家、平忠盛とが、それぞれ従位四位下、従位四位上を与えられて、武士、軍事貴族として初めて昇殿人に数えられます

そして、六位以下が「下級貴族」。前回まひろが、「同じ藤原でも下のした、気にしないで」と、まだ三郎として知る道長へ、かきくどくように言うシーンがありました。まひろ式部父・為時は、式部が宮仕に初めて出る頃には、従七位下、または従八位上が勤める、蔵人職、播磨国の権少掾などを歴任していました。こののち冷泉帝の引き立により従五位下に叙されて越後国守に任官します

下のしたと申しましても、それは貴族社会の中だけをみてのことで、当時500万の人口があったと推測されますが、うち貴族階級は150人から200人。全人口からみれば、まひろ式部の家族は上位0.3%にふくまれる、選ばれた上流階級のうちわにある人々なのでした

来週の予告編にはファーストサマーウイカ・清少納言の顔がちらり



紫式部日記に

少納言は、得意げな顔で、文章中に漢字をひけらかす。でも、実際の漢文の知識はというと疑わしい。まして、自意識過剰。必ず、まわりからみくびられる。調子いいのも今だけ。ちょっと見の感性を引き回すだけで、内容を感じない。それで、どうなのだと端から観察するのだけれど、、

と、清少納言評。来週からは、お互いの関係が描かれる、、、

『紫式部日記』清少納言評部分原文
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。

おまけ:財前直見演じる、兼家側室・藤原寧子が登場。この人は、兼家の浮気癖を「嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る」と歌い、百人一首に選収される歌人でもあります。浮気を嘆いて、現代に至るまで観賞にさらされるというの、も、だうなのだらう?歌だけにおさまらず、彼女は 『蜻蛉日記』に、兼家との生活を不遇であった、と綴ります。なお、『蜻蛉日記』は女性初の日記文学、、、

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2024年02月03日

梅の福岡城歴史遠足と教室「福岡城命名3つの異説」

ウメ咲く福岡城を天守まで、築城時の黒田孝高・長政父子の肉声を学びながら歴史遠足。福岡市美術館レクチャールームでは。備前福岡からとされる通説とは別の「福岡」命名3異説をご紹介

集 合:令和6年3月2日(土)13:00 福岡城下の橋
参加費:¥3.500-(1日保険含む)
後 援 :福岡市



【遠足詳細】
13:00福岡城下の橋→松木坂御門跡梅園天守台福岡市美術館レクチャールーム:講演「福岡城命名3つの異説」

問い合わせ・申し込み Tel.090-9404-4299
mail: naou_yz@icloud.com



  


2024年01月28日

道兼・花山天皇『源氏物語』筑紫の五節舞

〜光の君へ 第4回「五節の舞姫」〜


「五節の舞」に立つまひろ・紫式部が、段田安則・兼家以下、藤原北家九条流父子が居並ぶなかに、忘れもしない母の命を奪った玉置玲央・藤原道兼がいることに気づく第4夜

『源氏物語』「少女(をとめ)」の巻には筑紫の五節の舞姫を光源氏が懐かしみ贈答歌を贈る場面があります
五節の舞は十一月に行われる新嘗祭と大嘗祭の豊明節会に舞われる舞

舞姫たちは、中丑日に内裏の常寧殿に設営された五節所に夜になり参入。参入の儀と舞姫たちの予行演習である帳台試、天皇の前で行う御前試、天皇や上層貴族が舞姫に付き従った童女を見る童女御覧、等々の儀式がおこなわれます

大嘗祭でも舞われるという事ですから、今上陛下の即位・令和の大嘗祭の際にも舞われたのでした

凰稀かなめ・赤染衛門、黒木華・源倫子らと、「竹取物語」について語り合う場面でまひろ紫式部は、「かぐや姫の考えはまことにさっそうとしている」と云う主旨を述べます
紫式部は、『竹取物語』を物語の先例として敬愛していました。『源氏物語』には、そのことを物語る記述が随所に散りばめられてあります

「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」や
「かくや姫を見つけたりけん竹取の翁よりもめづらしき心地するに」 と、正体のわからない相手や物事がまるでかぐや姫または竹取物語のようだと、幻想的な比喩として、、

さらに続いて「いかなるもののひまに消え失せんとすらむと、静心(しずこころ)なくぞ思しける」




前回、坂東巳之助・円融天皇の食事に毒をもることを、父兼家から命じら実行する道兼。道兼のこうしたダークな横顔は、本郷奏多・花山天皇を騙して退位させた寛和の変(寛和二年986.6月22日)の実行者であった史実を裏づけに描かれたかと考えられます

寛和の変は、吉田羊・詮子の子懐仁親王を皇位につけ、天皇外祖父の位置に立とうと謀る父兼家が主謀したものでした。寵愛する井上咲楽・藤原忯子の死により大きく気を落とす花山天皇。道兼は、出家し仏門に入れば忯子とも会えると唆し退位を成功させます




兼家が病をえ関白を辞すにあたり、花山退位を実現し、懐仁を塩野瑛久・一条天皇として即位させた功労者として、自身の関白叙任を道兼は期待するものの、長兄・道隆にその地位を奪われ(永祚二年990.5月8日)ます。兼家はその後死去

長徳元年995.3月9日、病を得た道隆が嫡子伊周を関白の位に着けようと奏上するが許されず、はかなく4月10日に死去。享年43
道隆の死をうけて道兼は待望の関白に就任しますが、5月8日、道兼もまた世を去ります


『小右記』正暦二年991九月七日 〜 道兼、座を起ちて、参議の座の前に 〜

『初任大臣大饗雑例』勧盃作法事による)内大臣<道兼。>、座を起ちて、参議の座の前に来たる。盃を執りて進み、尊者に勧む。未だ此の例を知らず

『権記』正暦二年991.九月七日 〜 道隆、内大臣の官を辞して道兼に譲る 〜
太政大臣の官は、摂政正二位藤原道隆朝臣の任ずべきなり。而るに謙譲の心、深くして、内大臣の官をも辞び申してき。此の般、猶ほ昇進せしめば、彼の心に違ひぬべし。右大臣従一位藤原為光朝臣は、数代に歴仕へて、朝の重臣とあり。仍りて殊に太政大臣の官に上げ給ひ治め賜ふ。正二位行大納言源朝臣は、供へ奉るべき次いでの人に有るに依りて、右大臣の官に任け賜ふ。正二位行権大納言藤原道兼朝臣は、朕の親舅なり。朝恩を蒙るべき人なるに依りてなむ、殊に内大臣の官に任け賜ふ。又、正二位行権大納言藤原済時朝臣を大納言の官に、正三位行権中納言藤原公季朝臣を中納言の官に、参議従三位藤原道頼朝臣を権中納言の官に、参議従三位藤原伊周朝臣を権中納言の官に、正三位藤原道綱朝臣を参議の官に任け賜はく」と勅りたまふ天皇が御命を、衆、聞きたまへと宣る
『権記』藤原行成日記

『小記目録』長徳元年995五月八日
左大臣重信・関白道兼、薨ずる事

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2024年01月21日

紫式部日記へ反逆オマージュ、道長ひがみ評の為時が策士に.漢字知らん宣言まひろが漢字ゲーム炸裂

〜光の君へ 第3回「謎の男」〜

まひろ・紫式部父為時(岸谷五郎)が、左大臣源雅信の動きを知りたいという主兼家の希望に応えて、まひろをスパイがわりに、赤染衛門が主催する左大臣家でのサロンへ送り込む。


初回、前回と為時は友人である藤原宣孝・佐々木蔵之介、まひろ・紫式部の夫となる人だが、から、その融通の利かなさ、世渡り下手を揶揄われる場面があった。今回は豹変をみせて娘を情報収集のために左大臣家へ送り込むという策士を岸谷・為時は演じる。

為時についての融通の利かなさ、世渡り下手という評は、「紫式部日記」中に、紫式部が道長から責めらるエピソードとして、現代の私たちも知ることができる。

寛弘7年1010・正月2日、道長は宴をもつ。宴終了後には、一条天皇臨御の管弦会を予定した。いずれにも為時は招かれたが、管弦会がはじまるとそそくさと帰る。為時の退席に気づいた道長は〜など、御父の、御前の御遊びにめしつるに、さぶらはでいそぎまかでにける。ひがみたり」など、むつからせたまふ。「ゆるさるばかり歌ひとつ仕うまつれ。親のかはりに、初子の日なり、詠め詠め〜(管弦会にも招いておいたのに、そなたの父はそそくさと帰った、堅物である。父為時の無礼にかえて、一首献じよ。さあさあ)と、紫式部に歌作を迫る。



間者に仕立てられて左大臣家を訪れたまひろ・紫式部は赤染衛門・凰稀かなめが漢字の偏を示すのにこたえて、床に広げられた旁を記した紙片を拾うという「偏つぎ」で独り勝ちしてしまう。源倫子をはじめ、そこに集う女御たちを呆れる。

〜「男だに才がりぬる人は、いかにぞや。はなやかならずのみはべるめるよ」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、一といふ文字をだに書きわたしはべらず、いとてづつに、あさましくはべり〜と、紫式部日記はいう。

男でさえ、漢籍の知識を自慢するような者、 賢さをひけらかす者は愚かだと、誰かが言うのを聞いた。それからというもの、私は「一」という漢字すら人前では書きことはしない、勉学に縁がないものとしてふるまう、という。

「偏つぎ」もまた、為時の策士への豹変ともに紫式部日記を裏切る、反逆のオマージュだった。

左大臣家からもどったまひろ・紫式部に為時は、左大臣家での見聞を探る。まひろ・紫式部はスパイとして送り込まれたことに気づき、静かに怒りをあらわす。ラストシーンは、散楽の場での道長とまひろ・紫式部の再会。吉高由里子の奔放・大胆のようで繊細な演技がじんわり迫る、、、


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紫式部・吉高由里子日記・目次リンク

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2024年01月17日

冬の海に舞う海幸・山幸末裔.志賀海神社歩射祭神事、胴結舞.勝馬詣.汐掻き/昼:那国御膳

令和6年1月13日(土)9:00
福岡市営渡船志賀島航路・志賀島待合所集合


9:00志賀海神社境内東汀「禊之瀬」を見下ろす防波堤入り口で、海の中道が、少なくとも磐井の時代まで遡り、御祖神イザナギ・イザナミ二神を祀る二神山とよばれたと推測される立花山と、志賀島に鎮座する、その御子神綿津見神を齋う志賀海神社とを結ぶ道であること。また、志賀島・海の中道・新宮・宗像沖へと開く海域は、イザナギ・イザナミ神話・禊神話を展開させる空間だと、ひとくさり、、、


禊之瀬の潮につかる左)射手と神職。
志賀海神社は元旦も、祭礼も、ここ禊之瀬からはじまる。胴結宿(社務所)に籠る射手八名は毎朝未明みそぎを繰り返す
翌、14日に祭行される「歩射祭」での弓・矢神授のための射手たちの通過儀礼・苦行が、この日、繰り返される

9:45志賀海神社境内へ、、


末社・今宮社と本殿に祭祀される綿津見神との関係が、香椎宮創建という、大和政権による神祭りの全国統制の完成を物語るなど、ひとくさり


遥拝所は真東にむく。毎朝・毎夕、神職は真東に神宮を遥拝。海の中道の根元も、また、真東にあたり立花山・二神山がそびえる。神職は意識するか、無意識か、志賀海社・綿津見神・御祖神イザナギ坐す頂を拝してもいる、とも、ひとくさり、、、

10:30「胴結舞」参道鳥居前で修祓。射手は交代で100キロの藁包を背負い、阿曇宮司邸前御旅所前と練り歩く。


動画2「胴結舞・御旅所前」
https://youtu.be/kbkt4oS84P4?si=2mdxsTMnsaoZkym_

12:00まさご屋さんで「那国御膳」


13:00「勝馬詣・ガラモ刈り・中津宮参り」
志賀海神社本社から、志賀島北岸の勝馬・舞能之浜へまわり、射手八人は、騎馬を組み対岸の沖津宮島の岩礁にわたる。海水に飛び込んではガラモという海藻を刈り、岩礁に戻るとガラモをかかげ「舞能の岸の姫松や」と発声しながら、定位置で一回転するという原初型の舞をまう。長の者の「ならぬ」の声に従い、新参の射手は3度ほどガラモ刈りを強いられる。神話学の泰斗・松前健氏は、神話の儀礼化、儀礼の神話化を指摘する。海幸山幸神話は、その一例であり、北部九州の海神族のあいだでおこなわれていた通過儀礼の神話化だという。ガラモ刈りを数、強制される所作は、弟・火遠理命・山幸比古が、失った釣り針を償うのに、自身の剣を鋳潰して百、千の釣り針を打つても兄・火照命・海幸比古は許さなかったという神話を象徴する儀礼だと考えられる。


ガラモ刈りを終えると、白装束を着け中津宮に。「舞能之浜の姫松よ」で舞を奉納



18:00「浜下り・御汐掻き」
日没とともに、翌日「歩射祭」で矢の世話をする矢取りの子どもたちと射手が揃い、渡船桟橋横の浜へ下りミソグと、御旅所前にもどり、今度はオケ樽に用意された真水で、またミソグ、、、





14日「歩射祭・弓射神事」
9:00 本殿神事「八乙女舞奉納」・今宮神事


「弓取式」射手と矢取りの子



いとうべんさし「天地和合して、東西南北悪魔を祓え」と呪す、、


走る矢取りの子


射手八人。三度三手・九射に一年の吉凶を賭けて立つ。射抜けば神威が昂まる、、


次回予告、、























  


Posted by Frco.Don at 15:56Comments(0)歴史遠足・講演報告

2024年01月16日

蔵之介・宣孝とまひろ、曽祖父・歌人兼輔、代書屋・夕顔の歌、高御座で女を抱く花山天皇

〜光の君へ 第2回「めぐりあい」〜

冒頭は女性の成人を祝う「裳着の儀」。佐々木蔵之介・藤原宣孝が、男性でいえば烏帽子親にあたる「腰結」の典礼をつとめる
テロップに永観二年984とながされると、「まひろが母をなくしてから六年の歳月が流れた。そしてこの夜、成人の儀式がおこなわれたのである」と、伊東敏恵アナのナレーション



まひろの年齢を8歳に設定した、母ちやは刺殺事件から6年。紫式部の生年は、天禄元年970年・天延元年973・天元元年978など諸説あるが、「光の君へ」主人公のまひろ式部は天禄元年970年説をとるらしい

『紫式部日記』寛文七年の消息文に、今以上に老いぼれて、「めつらにそ」視力が落ちて経典も読まなくなるとある。この愚痴がこぼされた時期を、老眼が進む40歳前後と仮定し、他に、藤原実資の日記『小右記』にあるその後の式部の記録などから比定された各説で、いずれも信用できない

「腰結」をつとめた蔵之介宣孝は、まひろ式部が少女の頃から岸谷五郎為時の友人として初回から登場した
歴史上の宣孝と為時の付き合いは、ドラマ上のまひろ式部「裳着儀」同年、本郷奏多・師貞親王が即位し、花山天皇となった永観二年984.10月以降のことだと考えられる。二人は花山天皇の下、同僚として秘書官・蔵人に着任する

長徳二年996、越前守に着任した為時とともに、まひろ式部が越前へ下ると、宣孝はまひろへ、数通の恋文を贈る(上野辰義「紫式部と藤原宣孝」)。長徳4年998頃、ふたりは結婚。長保3年1001.4月15日、紫式部と一子をのこし宣孝は疫病に罹患し死去する。式部と宣孝の結婚生活は3年足らずで終わる

自室の文机にむかうまひろ式部は、「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」と口ずさみつつ、書き写す。『後撰和歌集』撰収の曽祖父藤原兼輔の歌。兼輔は、朱雀天皇下、従三位にのぼり権中納言をつとめた

男を声色して代書屋家業に励む、まひろ式部は、最初に代書した桜花の歌を女御から突き返されたと泣きついてきた、人のよさそうな職人に、今度は「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔」と詠じて渡す。三郎とまひろのあいだのその後を予見させる、もうひと悶着があり職人は恋を成就する




近くにより、大切に御覧ください。黄昏にぼんやり現れた夕顔の花を、と、詠うこの歌は、『源氏物語』四帖「夕顔」所収の、夕顔から贈られた「心あてに それかとぞ見る 白露の 光添へたる 夕顔の花」への光源氏からの返歌でした



扇子を足で操るりながら、母娘ともども遊んだと漢文指南役としてのぼる為時を揶揄う奏多師貞親王。この奇行譚は、親王が花山天皇となり後、出家するが、その後のことで、母娘と通じたうえ、その主人とも関係を結んだという。主人は、花山天皇の叔母にあたる人。別に大極殿高御座で女官と交るという話もつたわります

ただし、前者は『栄花物語』、後者は『江談抄』にあることで、花山天皇没100年後に著された資料中にある話。同時代史料の藤原実資『小右記』中にはみられない話

さて、奏多・花山天皇の話はともあれ、
『後撰和歌集』選定の曽祖父と、『源氏物語』へのオマージュが配された第2回でした。


記事内のリンクに不具合がある場合には、ご一報いただけるとしあわせです。
tahi_qz@ybb.ne.jp

紫式部・吉高由里子日記・目次リンク

〜 光の君へ 〜次回予告Movie

那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演 歴史遠足予定

那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演 歴史遠足ご報告

那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ
〒811-0322 福岡市東区大岳3-21-1-301
090-2512-4299・清田
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2024年01月15日

「初春令月、風和ぎ梅咲く旧暦元日」jrと渡船を乗り継ぎ.香椎・宇美・志賀海三社詣

天平二年正月、帥旅人邸での詠歌をまとめた、万葉集巻五・梅花宴三十首の詞書に「時に初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き」とあります。元号令和の出典でもありますが、ここにあるように正月は梅花開く頃でした。梅ほころぶ旧暦正月・元日2月10日にJRうみなか線と福岡市営渡船を乗り継いでの三社詣です。

令和6年2月10日(土)7:30 香椎宮楼門前
参加費 :¥3,500-(香椎宮〜志賀島移動費・1日保険)

問い合わせ・申し込み
Tel.080-3984-4299/mail: uminaka_yz@icloud.com



【当日予定】am0730香椎宮楼門前集合→徒歩→ 香椎宮0750着/境内散策/ 0830香椎宮発→(徒歩)→ 0857jr香椎神宮発→09:27宇美駅着→(徒歩)→09:50宇美八幡奥宮着→(徒歩)→ 10:20宇美八幡宮着/境内散策/11:10境内発→(徒歩)→ 11:35jr宇美駅発 →12:05香椎着 →乗り換え→12:09→12:29jr西戸崎着 →乗り換え→12:45渡船西戸崎発→13:00志賀島着 (志賀島参道にて各自食事→14:00「禊ノ瀬」→14:30志賀海神社参拝→15:00解散

主催:志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ
後援:福岡市


左)香椎宮・臥龍梅 右)宇美八幡宮・枝垂れ梅



  


2024年01月09日

紫式部日記・源氏物語へのオマージュ、逃げたカゴの鳥・国仲母刺殺、紫式部の実名と年齢

〜光の君へ 第1回「約束の月」〜

「光の君」制作統括内田ゆき氏は「源氏物語を描くことはありません」ときっぱり。一方、源氏物語ファンにも楽しめるようなオマージュが所々にちりばめられている「分かる方には分かるようなネタが、いっぱい出てきますよ」と、プレスに語る

少女の落井実結子・まひろ式部が逃したカゴの鳥を探しに野をさまようところに、三郎、のちの藤原道長と偶然出会う。これから、一年にわたり描かれる、まひろ式部と道長との物語が逃げた小鳥を介してはじまる。

カゴの鳥を逃す話は『源氏物語』第五帖 〜若紫〜に述べられる。

「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠ふせごのうちに籠めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、「例の、心なしの、かかるわざをして、さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ」とて、立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とこそ人言ふめるは、この子の後見うしろみなるべし
(小学館『新編 日本古典文学全集20・源氏物語(1)』「若紫」より)

母に生写であったという藤壺の姪,
、未だ少女の紫の上をはじめて垣根越しに垣間見る光源氏。紫の上は、お付きの童女・犬君が大切に飼っていた雀をカゴからのがしてしまったことを詰る最中。『源氏物語』中、ひときは可愛らしい、このエピソードが最初のオマージュとして描かれた


土佐光起筆『源氏物語画帖』より

母ちやは国仲涼子は、主人為時任官の願掛けにのぼった森の小祠からおりてきたところを、狂乱した道長二兄・道兼に刺殺される。この時、まひろ式部の年齢設定は8歳。史実上「藤原為信女」とのみ伝わり、実名不詳のちやはは、式部弟・惟規を出産後、日だちが悪く亡くなったと推測される



紫式部には、まひろという、愛くるしさと寛ぎを感じさせる名を、脚本の大石静氏は授けたけれど、父為時の官職名・式部尉と、『源氏物語』紫の上から「紫」をとり通称「紫式部」のみが伝わりやはり実名は不詳。多くの研究者は紫式部の実名は確認されないとするが、大阪市立大学教授、平安博物館館長などを歴任した故角田文衞氏は「香子」が実名だと主張されます

幼いまひろ式部が、高貴な家の娘なのよ、と、三郎相手に意地を張る表情が愛をしい、、



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紫式部・吉高由里子日記・目次リンク

〜 光の君へ 〜次回予告Movie

那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演 歴史遠足予定

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2024年01月08日

紫式部・吉高由里子日記・目次リンク

『大鏡」中の花山天皇出家と安倍晴明/実資日記『小右記」中の義懐への文句
〜 光る君へ 九夜「遠くの国」〜


道長、倫子婿入り問題/仇を前に琵琶、、、
〜 光る君へ 八夜「 招かれざる者」〜


花山天皇・忯子と桐壺帝・桐壺/雨夜の品定め的布石/兼家の怒りをたたえた笑い、、
〜光の君へ 七夜「 おかしきことこそ」〜


女でも役に立つ平安社会・道長「望月の歌」への暗喩・式部日記から元輔セリフ・伊勢物語・万葉集から
〜光の君へ 六夜「ふたりの才女」〜


月と式部/道長の筆跡・乗馬/官位etc
〜光の君へ 五夜「告白」〜


道兼・花山天皇『源氏物語』筑紫の五節舞
〜光の君へ 四夜「五節の舞姫」〜


紫式部日記へ反逆オマージュ、道長ひがみ評の為時が策士に.漢字知らん宣言まひろが漢字ゲーム炸裂
〜光の君へ 三夜「謎の男」〜


蔵之介・宣孝とまひろ、曽祖父・歌人兼輔、代書屋・夕顔の歌、高御座で女を抱く花山天皇
〜光の君へ 二夜「めぐりあい」〜


紫式部日記・源氏物語へのオマージュ、逃げたカゴの鳥・国仲母刺殺、紫式部の実名と年齢
〜光の君へ 一夜「約束の月」〜





〜 光の君へ 〜次回予告Movie

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2023年12月18日

那国王の教室「黒田官兵衛孝高と千利休」+復元利休の菓子「ふの焼き」煎茶会

令和05年12月8日(金)。福岡市営地下鉄大濠公園駅5番出口集合。福岡城外堀西端角・かんぽ生命保険福岡サービスセンタービル横の潮見櫓再建現場前へ、、
下の橋御門横の伝潮見櫓との関係など説明。花見櫓として崇福寺へ移設されていた同櫓は、その後の解体工事の際に発見された棟札に「潮見櫓」とあり、その正体が確定されたなど、しゃべる。再建完成は令和7年の予定。なお伝潮見櫓は三の丸へ西側から登る裏御門の横に建つ「時櫓」だとされる。


覆屋手前に見える土がつめる枠は壁土を熟成させるためのプール。右は二階破風部分の部材組み

再建作業をつとめる大工さんによる手斧実演

大濠公園ボートハウス横へ移動。


奥村玉蘭・筑前名所図会にある「千賀浦古跡図」を参照に、現在の南当仁小学校敷地にあった黒田別邸鳥飼茶屋から見えた潮見櫓、武具櫓など、大濠公園・当時の草香江、または鳥飼潟から臨む福岡城を想像してもらう

筑前名所図会「千賀浦古跡図」中央小高く描かれた本丸上に三層の武具櫓。左手、丘陵が鳥飼潟・現在の大濠公園へ落ちようとするところに小さく潮見櫓が描かれている。潮見櫓の再建が完成し、かんぽ生命保険福岡サービスセンタービルがどいてくれれば、「千賀浦古跡図」が描かれた頃とおなじように、大濠公園側から同櫓がみえる


大濠公園中島を南側へ歩き皐月橋手前へ。東側、福岡市美術館方面を
望んでもらう。美術館の頭辺りに多聞櫓と天守台がわずかに顔を出す。築城時、初代長政が天守南の守りであると、重要性を強調して建設を急がせた武具櫓が再建されれば、多聞櫓の天守台の南上方に、伊予・松山城、陸奥・弘前城の天守閣クラスの規模をほこるその破風が輝いてみえる。
051208大濠公園歴史遠足レジュメ


そして、大濠公園日本庭園へ、、、

左.庭園広間入り口でその後の予定など/右.庭園表門

広間四景

那国王の教室:講演「黒田官兵衛孝高と千利休」
【要旨】
・岡谷繁実『名将言行録』、司馬遼太郎『播磨灘物語』にある、孝高が茶の湯を嫌悪したは事実か?
・「歌会・連歌会からの茶」、「藤原定家『詠歌大概』と茶湯」、「歌、古典文学につうじる孝高」
「近衛前久に歌を学ぶ、孝高祖父・明石宗和」などの事実と孝高の茶湯
・孝高参座の茶席「今井宗久茶湯日記抜書」/津田宗及 天正五年六月十一日条「宗及自会記」 天正十三年一月十六日条 /利休醒ケ井の会「今井宗久茶湯日記抜書」天正十五〔十四〕六月十三日条/利休野菊の会『宗凡茶湯日記他会記』天正十八年九月二十三日、などから考える
・天正十八年「極月四日」付、利休、孝高宛書状/孝高「茶の湯の記」/「宗湛日記」利休のふみカケテ・福岡城の会、などから考える
・大徳寺龍光院密庵席と孝高・大坂天満茶屋図から考える

詳細:051208講演「黒田官兵衛孝高と千利休」レジュメ参照

復元・利休の菓子「ふの焼き」とお茶
講演途中、休憩時間にお茶一煎目をサービス。光安茶舗「煎茶 千代結」100g¥3.000-使用

二煎目とあわせて「ふの焼き」を

「ふの焼き」の復元は江戸時代半ば、享保三年1719刊の菓子レシピ書『御前菓子秘伝抄』中にある製法を参考に博多区美野島のストライプスパン工房さんへ依頼。
ストライプスパン工房さんによると「ふの焼き」は「麩の焼き」だろうから、小麦たんぱく、グルテンを原料にするものとのこと。
つまり、「ふの焼き」は、小麦たんぱくを強化した焼き菓子。そこで、現代の小麦は、昔の小麦に比べるとグルテン含有量が多いため、特に、グルテンを強化せずに使用。一方で、製粉技術が当時より向上しているため、全粒粉を使用しました、とのこと。餡は、『御前菓子秘伝抄』「ふの焼き」の項目にある山椒味噌とクルミ。


〜「御前菓子秘伝抄」・「ふの焼き」項より〜
ふのやき 小麦を、水にてしるくこね、ちいさき平銅ヒラアカヽネ鍋にくるみの油をぬり、少しつゝ入、うすくひろけ、やきて、むきくるみをきさみ、山椒味噌、白さたう、けしを、中へまきこめ申候。(東洋文庫・鈴木晋一『近世菓子製法集成』1所収)

〜利休の好み菓子〜 
死の前年にあたる天正18年8月から翌19年閏正月までの間、利休は頻繁に茶会を行っています。その茶会の多くは『利休百会記』に記されていますが、88回中68回の茶会に「ふの焼」という菓子が使われています。当時の菓子は、「昆布」や「栗」や「饅頭」など素朴なものが多いのですが、「ふの焼」の使用回数はぬきんでています。そこから後世、「ふの焼」が利休好みの菓子と言われるようになりました。(「菓子資料室 虎屋文庫」より)






  


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2023年12月17日

第一回住吉能楽殿講座「能楽殿を学ぶ.体験する.聴く」


住吉神社能楽殿・舞台


令和5年12月2日(土)13:00能楽殿クロークで受け付け


第二部「能楽と殿を体験する」で、神舞う場、神聖な本舞台へ上らせていただくため、鈴祓

第一部:横田昌和住吉神社宮司 講演「能楽殿を学ぶ」
【要点】
・古来の音響効果施設として、橋掛りから本舞台床下に巨大な甕8〜10基が埋められている
・おなじく音響効果をもたせる目的で、天井上、また鏡板後背に広い空間がもたれている
・客席が床板桟敷席である
・これら、能演出の音響を古来のまま伝える能舞台は、こちら住吉能楽殿の他には東京都杉並区の「杉並能楽舞台」があるが、同舞台は使用されてはいない。現役の古式舞台としては、住吉能楽堂が唯一
・本舞台をおおう屋根は檜皮葺であり格式の高さを物語る
・水上泰生により描かれた鏡板の松の枝振りは、宮中能楽所舞台の松に似ている
・入母屋造りを感じさせる屋根など、全体の形式も、また、宮中能楽所舞台に似ている


講演中の横田昌和宮司/宮司の名「昌和」の「昌」は同社家が代々継承する通字。源頼朝に命じられて、山木判官平兼隆邸襲撃の日を占ったとして「吾妻鏡」に登場する、筑前住吉社神官・小大夫昌名長以来伝わる。

第二部「能楽殿を体験する」

宮司の案内で鏡の間・楽屋・舞台床下・橋掛り・舞台へ


楽屋で準備を整えた役者は、鏡の間に移り、鏡の前に立つと、自身に神が降る時をまつ、、


橋掛りから、舞台の床に沈む甕。音響効果を高めるために、それぞれ角度が考えられて埋められる。


囃子方や後見の出入り口「切戸口」


橋掛り

第三部「能楽殿を聴く」桐田篤史権祢宜 龍笛演奏

龍笛指導者の立場にある桐田権祢宜による演奏と、神楽の音の歴史について、、


客席後背に掲げられる広田弘毅の大墨跡「皇威宇宙に洽し」についての解説などもあり、盛会のうちに終了。ありがとうございました。

姉妹グループ〜志賀島航路と ジェーアールうみなか線DENCHA満員計画クラブ開催「歴史遠足」次回予定







  


Posted by Frco.Don at 18:50Comments(0)住吉能楽殿講座

2023年12月13日

海幸・山幸神話の祭り・志賀海神社歩射前日神事「勝馬詣」観覧


新年、令和6年1月13日祭行、翌日の歩射祭への通過儀礼、志賀海神社「勝馬詣」観覧会のご案内。

同日午後、志賀島北端の勝馬浜沖に浮かぶ、志賀海社沖津宮の岩礁上に下帯姿で若衆(歩射祭射手)八名が舞い、海へ飛び込んでは、また、舞います。お昼は勝馬浜まさご屋さんで海の幸・山の幸あふれる「那国王御膳」。

1月13日9:009:00福岡市営渡船志賀島旅客待合所集合
会費¥5.500-(島内移動費・1日保険・那国王御膳)
主催:志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ
問い合わせ・申し込み
uminaka_yz@icloud.com /080-3984-4299

【当日予定詳細】
9:00福岡市営渡船志賀島旅客待合所集合→禊ノ瀬→志賀海神社→10:00同参道「胴囲舞」神事観覧→まさご屋マイクロバスにて勝馬へ・昼食「那国王御膳」→勝馬舞能ノ浜「勝馬詣」神事観覧→まさご屋マイクロバスで渡船待合所・JR西戸崎駅




福岡市後援/市政だより12.15号情報BOX13面掲載
https://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/116522/1/BOX_1215_web.pdf?20231205145942

【勝馬詣と海幸・山幸神話について】
この海幸山幸物語・海宮訪問神話について「この神話の舞台は紺碧に海の国であり、話の筋に欠くことができない道具が、この海に縁のある鉤や塩盈珠や塩乾珠であってみれば、この神話の管理者が、ともかくも海を生活のよりどころとしている氏族であろうということは十分に想像がつくところである。そこでこの神話をみてみると、この海神国の主宰者が綿津見神となっていることに気づくのである。この綿津見神は黄泉の国から帰られた伊邪那岐神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぎ祓いされた時に成りました神である。(中略)すれば、この神話の管理者としての海の氏族というもの、もっと幅を狭めて、この阿曇氏ではなかったろうかということになってくるのである。(『記紀神話論考』〜海宮訪問神話の拡充〜守屋俊彦より)
  


2023年11月12日

能楽殿講座第0回:桐田祢宜・能楽殿解説/講演「沖ノ島福岡藩兵在番と住吉神社」

令和5年11月11日(土)13:00住吉神社楼門前集合でたむろしていると、折よく大相撲九州場所フレ太鼓登場

住吉神社能楽殿は元魁皇の浅香山親方の部屋がある

能楽殿前の土俵で若い衆に稽古をつける元魁聖・友綱親方とこちらに歩いてくる、元魁皇・浅香山親方

さて、楼門前に迎えにきてくれた桐田祢宜の案内で能楽殿へ。この日、参加者15名
前日までの雨から一転、空は秋の「青」!


ササ、なかへ中へ、、、


舞台屋根が柿葺ではなく檜皮葺。能舞台としての格式の高さを示す
舞台床下への瓶の配置・鏡板.天井につくられた空間など、音響のための古式の建築様式をつたえる
御簾を備えた貴賓席をもつ
などなど、住吉能楽殿が伝える能舞台としての特徴について解説。こうした古式建築をのこしながら現役として使用されている能舞台は全国に唯一、ここだけ。また、構造や鏡板の松の枝振りが宮中能楽場の能舞台によく似ているとも(西日本文化332岡山)


橋掛から本舞台へ。移動しながら音の響きの質が各地点で違うことを実証、、、


そして第二部・講演「福岡藩兵沖ノ島在番と住吉神社」
・イザナギの禊による化成三列九神と住吉神社・志賀海神社・警固神社
・禍津見神化成の地としての大筑紫岩・小筑紫岩
・黒田家と住吉神社
・沖ノ島在番福岡藩兵を占定める住吉神社宮司・横田紀伊守昌輝
 などなど、、、
 講演レジュメはこちら、、、

那国王の教室次回案内


  


Posted by Frco.Don at 23:51Comments(0)住吉能楽殿講座

2023年10月25日

紅葉の大濠日本庭園で教室「黒田官兵衛と千利休」と利休の菓子ふの焼茶会

大濠公園中之島を歩き、かつての鳥飼潟・千賀浦古跡に設られていた、黒田家鳥飼茶屋からの風景と同じ角度で福岡城を観ながら大濠公園日本庭園へ。一面に紅葉の露地を観せる広間で黒田官兵衛と千利休の交流をテーマにした教室・講演と、江戸時代の菓子製法書「御前菓子秘伝抄」につたわる製法で復元した利休が好んだ菓子「ふの焼き」で煎茶の会(茶葉・白折)、、


大濠日本庭園広間からの紅葉

日時 :令和5年12月8日(金)13:00〜17:00
会場 :大濠公園と大濠公園日本庭園
集合 :13:00 地下鉄大濠公園駅5番出口
参加費:¥5,000-(当日・一日保険等含む)
問い合わせ・申し込み /那国王の教室
Tel. 090-9404-4299
mail: naou_yz@icloud.com

・当日予定詳細
13:00地下鉄大濠公園駅5番出口集合(潮見櫓再建予地)→大濠公園中之島→13:40:大濠公園日本庭園・講演.教室「黒田官兵衛と千利休」・15:00:利休「ふの焼き」煎茶会


利休添え状がある密庵咸傑墨跡のための床をもつ、官兵衛菩提所・大徳寺龍光院の密庵席


後援:福岡市
福岡市政だよりweb版案内ページ  


2023年10月25日

#住吉能楽殿を学ぶ、体験する・横田昌和宮司が語る

〜第一回住吉能楽殿講座〜主催.監修「那国王の教室」/後援.福岡市

宮中能楽場能舞台を真似たとされ、舞台下に音響のための瓶がすえられるなど、古来の装置をつたえる
全国唯一の能舞台体験。

第一部:講演「能楽殿を学ぶ」住吉神社宮司 横田昌和氏
第二部:〜能舞殿体験〜 橋掛から本舞台へと上がり能楽殿を体感。神職の龍笛演奏により音の響きを聴き比べる等 
※第二部の能楽殿体験へご参加の方は必ず白足袋をご用意ください



日時 :令和5年12月2日(土)13:00〜16:00
集合 :住吉神社能楽殿
参加費:¥3,000-(当日)
参加費は全額、住吉神社能楽殿運営基金となります

問い合わせ・申し込み 那国王の教室
Tel. 090-9404-4299
mail: naou_yz@icloud.com

参照:福岡市政だよりweb版ページ



  


2023年10月19日

#051111住吉神社能楽殿見学&教室宗像沖ノ島藩兵在番と住吉神社

音響のための瓶が舞台下に埋まる、貴賓席が設置されるなど、能舞台として全国的にも貴重な文化財である、改修をおえた住吉神社能楽殿を見学。見学後には能楽殿を教室に、福岡藩士・柴田千里「元治元年沖ノ島渡島記」をテキストに使い、宗像沖ノ島在番藩兵選抜についての占いに住吉神社神官が携わっていたことについての話。


画/名嘉睦稔「海神妃」

日時 :令和5年11月11日(土)13:00〜17:00
集合 :13:00 住吉神社能楽殿
参加費:¥3,500-(当日)

福岡市政だより 情報BOX 9月15日号 案内記事




  


2023年10月19日

令和5年10月15日香椎宮秋季大祭「流鏑馬神事」


正午・境内外.桜並木の流鏑馬馬場完成


流鏑馬人馬三騎そろい、弁財天社を左手に勅使道へ並足で、、


勅使道からニノ鳥居左袖たまりへ、、


たまりでお汐井をうけ、神馬ともに潔める、、


騎手拝殿へ、、


騎手、昇殿の上、玉串奉奠、、


綾杉にかかる日神、、




騎馬、本殿下になおり祝詞奉上、、





綾杉三巡


馬場を潔める、、


馬に馬場を見せる、、




三騎三走・九射、神威を射掛ける、、











  


Posted by Frco.Don at 10:16Comments(0)新・太宰管内史

2023年10月18日

歴史遠足:下照姫社〜綱敷社:講演「慶長5年筑前入部の長政と二代忠之の神社分祠・遷座・創建のワケ」

  令和五年10月14日(土)博多区役所1F集合

【博多南堀(房州堀)界隈】
→まずは、博多署駐車場横・藤田公園北口で辻説法


博多署から祇園町交差点、そして御笠川へと通る博多南堀(房州堀)。博多の南の守りとして黒田長政が整備。通りの北むかい、万行寺の塀の下にのぞく石垣は博多南堀の痕跡だという。堀をわたり南から博多へ入る関門は二ヶ所。西側、現在の福岡商工会議所ビル辺りに「矢倉門」。若八幡宮辺りに「辻堂口」があった。黒田孝高が招いた鷹匠が住んだという鷹匠町跡でもあったり、この辺りについては、しゃべりだすと忙しい。博多千年門は復元辻堂口門だそう、、、



【下照姫神社】→江戸時代「吉聖女社」とよばれた下照姫神社は、筑前入部後、黒田長政が博多津中南西部に瓦町を建て、入植する黒田系商人の産土神として、博多郊外から遷座させたよし。博多南堀が那珂川につながる角地という博多津中の守りの要衝へ坐しまされる。住吉神社境外末社で、祭神は下照姫(大国主・宗像タギツ姫の子)・玉津島神(衣通姫・允恭天皇妃)・味耜高彦根(下照姫兄)。

「福岡城下町・博多・近隣古図」19C初頭・九州大学蔵より一部/長政新建設の瓦町。その南、那珂川と博多南堀結節点に鎮座する下照姫神社

下照姫神社境内。裏は貝原益軒のご子孫のお宅

【旧福岡県公会堂・貴賓館】

→明治45年1912.3月、亡命中の孫文が演説をおこなった旧福岡県公会堂・貴賓館。その、ちょうど一年前、明治44年1911.3月25日、同館裏手の松浦病院の一室で青木繁は、闘病生活の末、短い人生を閉じるのでした

【マリリンモンローと国際ホテルとロイヤル花の木】
→公会堂から中洲方面を振り返ると、この日の講演会場、アクア博多ビルが。かつての日活ビルで、その左隣の国際ホテルに、昭和29年1954.2月、世界一周新婚旅行中のマリリン・モンロー・ジョー・ディマジオ夫妻が宿泊。モーニングは、明治通りをわたり、現在のエクセルホテル博多東急の位置にあったレストランロイヤル1号店「花の木」で。モンローは、毎朝、お気に入りのオニオンスープでご機嫌だったそう。ふたりは二泊三日を福岡で過ごしたらしい。

振り返ればアクア博多ビル。C会議室が講演会場


【福岡城東取入口・升形門.高石垣.水鏡天満宮.勝立寺】
→アクロス薬院新川沿い遊歩道脇に残される石垣は、現在の橋口、西中島橋を福岡側にわるところに築かれた、櫓をのせる東取入口・升形門を中心にH3メートルの塀をのせたH8メートルの高石垣の跡。南は福岡城から伸びてきた外堀が薬院新川へつながる現在の国体道路あたり。北は、薬院新川が那珂川に合流して博多湾まで。升形門の背後には水鏡天満宮勝立寺の境内が囲むのです。それは、一群の要塞をみるよう。

アクロス下、高石垣跡、、


奥村玉蘭・筑前名所図会「水鏡天神」(水鏡天満宮)/手前にみえる本殿の奥に升形門を形成する豪壮な石垣がスケッチされております、る。

古写真/中洲側からみた東取入口・升形門・西中島橋と高石垣。現在は赤煉瓦館がみえております

天神ビックバンで水鏡天満宮は薬院新川・那珂川合流点沿いに2030年以降、ご遷座予定

【福岡藩精錬所跡碑】

→現在は歓楽街の真ん中。当時は未開発の中洲に、現在でいえば理化学研究所に例えられる福岡藩精錬所が建設され、産業振興のための研究が行われるのです

【中洲国広稲荷】
→産業振興の一環で福岡藩が、未開地の中洲を歓楽の場として開発をはじめると、氏神として国広稲荷社が創建

そして、社殿は、ビルの谷間、、

【鏡天満宮】
→お稲荷さんの谷をぬけて、博多川をわたると、リバレイン横の鏡天満宮。菅原道真が、左遷の長旅の末の舟掛かりの地・博多の浜辺でやつれた顔を写したという鏡が御神体


【綱敷天満宮】
→綱場町に鎮座する綱敷天満宮。中世、大陸系貿易商は綱首とよばれたのです。綱敷天満宮鎮座の町・綱場の「綱」は綱首からくるもので、綱場は、綱首の場をいうのだという説があるわけです、、

参加者の大穂さん。拝殿前で能菅奉納
歴史遠足:レジュメ

→さて、いそいそと、講演会場のアクア博多ビルへ、、


講演「慶長5年筑前入部の長政と二代忠之の神社分祠・遷座・創建」レジュメ  


Posted by Frco.Don at 20:27Comments(0)歴史遠足・講演報告