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競走馬育成牧場でおぼえた騎乗。その後、全国8カ所・8種の在来馬を乗り歩く。平成30年宗像大社春季大祭・流鏑馬騎手。ヨットは我流。カヤックイベント企画、カッター先生。住吉能楽堂講座・企画運営.講師、街歩き「那国王の教室」企画・運営などなど、、、

2024年04月15日

涙を流した宮仕・清少納言/初めて個を物語した道綱母・寧子

〜 光る君へ 十五夜「おごれる者たち」〜



この夜の見せ場は、なにを措いても、桔梗納言と高畑充希・中宮定子の出会い。そして、石山寺での『蜻蛉日記』著者・藤原道綱母、財前寧子とまひろ式部との出会いでせう、、

清少納言の初めての出仕は、正暦四年993だといいます
桔梗納言は、充希定子の挙措に、視線を吸い込まれてしまうのですが、『枕草子』の清少納言は、女房として宮仕のはじまりは、涙をもようすほどに失敗ばかりだったと述懐します、、、

ーーー『枕草子』一八四段
宮にはじめてまゐりたるころ、物のはづかしき事の数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々まゐりて、三尺の御几帳(みきちやう)のうしろに候ふに、絵など取り出でて見せさせたまふを、手にてもえさし出づまじうわりなし。

(中宮御所に初めて出仕したころ、何もかも恥ずかしいことだらけで、涙を流す思いだった。毎夜参上して、三尺のついたての後ろに控えていたところ、中宮
様が絵などを取り出してお見せくださるのを、それに私は手さえも差し出すことが出来そうもない状態でどうしようもなくつらい。)

いと冷たき頃なれば、差し出させ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅なるは限りなくめでたしと、見知らぬ里人の心地には、かかる人こそ世におはしましけれと、驚ろかかるまでぞ守りまゐらする

(それは、寒い頃で袖からわずかに差し出された指先が、それはつややかで薄紅梅色をさしていた。宮中を知らない者などにいわせれば、このようなお人がこの世においでなのかという思いをさせられるでせう)

道綱母・寧子と紫式部の出会いがあったかといえば、なかったのでは?と、諸資料からは考えられます。紫式部は、和泉式部、清少納言、赤染衛門については、その日記に批評としての文字を残していますが、寧子については皆無です。『源氏物語』の着想を石山寺でと云う話も伝説の域を出ません。式部が藤原宣孝と結ばれることについては、これまでもふれてきました。式部、26歳前後、正暦元年990の頃。宣孝は40歳を超えた年齢で、当時の常識でいえば初老の域です。ふたりの暮らしは、わずか2年、長保3年1001に宣孝が死没することで終わりをむかえます。年の離れた伴侶、宣孝の死こそが『源氏物語』執筆の契機だといいます

和泉式部については、中身がないのに気取った歌をつくる。清少納言については出しゃばり、浅薄。一方、赤染衛門については「まことにゆへゆへしく」と、深みのある歌人だと、式部は評しています。

道綱母・寧子については、なにも語らない式部ですが、それまでの文学が『竹取物語』をはじめ、いずれもフィクションであったところに、日記文学を女流ではじめてなした人でした。女性ではじめて、『蜻蛉日記』を著し、個を語ったということです。身分、恋愛、女として懊悩の最中にあるまひろ式部。、女としての個を語る先達、財前寧子との観音信仰の寺、石山寺での邂逅。それは願ってもない機会でした、、、

記事内のリンクに不具合がある場合には、ご一報いただけるとしあわせです。
tahi_qz@ybb.ne.jp

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〜 光の君へ 〜次回予告Movie

那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演 歴史遠足予定

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那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ
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090-2512-4299・清田
tahi_qz@ybb.ne.jp
  


2024年04月08日

【明子の呪詛/兼家と怪異】/【兼家の派手な衣装と金峯山参りと『枕草子』】

〜 光る君へ 十四夜「星落ちてなお」〜


【明子の呪詛/兼家と怪異】
藤原兼家居宅・東二条院(中京区要法寺前町寺町通・二条京極邸跡)は物の怪が祟ると噂の
地。兼家が老齢もあり病がちになると、人々は移居を勧めますが、「東山などのいとほど近く見ゆるが、山里とおぼえて、をかしきなり(東山が近く、山里の趣がよい)」と、お気に入りの地であること、また、怪異を信じない人であったことから承知しませんでした

『大鏡』兼家伝に以下あります

月のあかき夜は、下格子もせで、ながめさせたまひけるに、目にも見えぬものの、はらはらとまゐりわたしければ、さぶらふ人々は怖ちさわげど、殿は、つゆ、おどろかせたまはで、御枕なる太刀をひき抜かせたまひて、「月見るとてあげたる格子おろすは、何者のするぞ。 いと便なし。もとのやうに、あげわたせ」

ーー 御簾をあげさせて月を楽しむあるよ夜。怪異が御簾を下ろすいたずらを仕掛けた。人々は恐れるが、兼家は太刀をぬくと「月を観ようと上げる御簾を下ろすものは誰か、もどせ」と、逆切した、と、、

しかし、今夜、瀧内公美・明子による兼家所用の扇子を形代にした呪詛により、兼家は落命したワケです。段田兼家は、明子が仕掛けた怪異に負けたということでした



【兼家の派手な衣装と金峯山参りと『枕草子』】
『枕草子』あはれなるものの段に、紫式部の夫になる人、藤原宣孝についてふれる部分があります。神前は質素な出立でというが「神様は質素な装いで詣でよとはおっしゃっていない」と、宣孝は、濃い紫の袴に白い狩衣、山吹の包衣。子の隆光には、青色の狩衣、紅の衣、乱れ模様をすりだす袴を着させて、吉野金峯山へ参詣。すると、筑前国守への官途がなったそうで。

今夜、宣孝は筑前国守として下向するむねを、まひろ式部一家は報告するわけです。その際に「御嶽詣が効いた」と軽口をつげる宣孝。『枕草子』宣孝レポートへの小さなオマージュでした

清少納言と紫式部。納言は、式部の夫宣孝の金峯山参りを『枕草子』で揶揄う。式部は、納言を名指しで『式部日記』中に辛辣に裁いています。しかし、まひろと桔梗は良き友人らしき設定。

そして、一つ気にかかるのは、下向した筑前から宣孝は式部に仮想文を送ることです。式部は日記に記録していますが、これまで良き親戚、良き伯父として岸谷為時、まひろ式部との付き合い、関係をみせていた佐々木宣孝が、どのような契機をむかえて、まひろを伴侶としてみることになるのでせう、その事です、、、


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2024年04月05日

定子、一条天皇に入内を面白くなかって道長/この漢詩の筆跡はだれ?と聴く倫子、、、

〜 光る君へ 十三夜「進むべき道」〜

道隆の子・定子が一条天皇に入内。兼家の孫どうし。道隆の子、妹東三条院・詮子の子、つまり従兄弟どうしの婚儀による、天皇・中宮(皇后)ということです。道長には甥であり姪

『栄花物語』によると、道長は姪の立后について面白くおもっていなかったといいます。その頃、兼家が重篤な状態にありました。これをはばかることなく進められたことに反発していたようです。権中納言と同時に中宮太夫という、中宮の世話役を勤めていましたが、その職分を果たすことがなかったといいます

この夜、緊張が最高点に達した場面は、倫子が道長の文箱から見つけた陶淵明の漢詩「帰去来辞」を綴る手紙をまひろにみせるところでせう。

倫子は、筆跡が女のものだ。道長様にとってどのような人だろう?と、まひろにこぼすように言います。漢詩は男が嗜むものであり、女の立場で通じる者はごくわずか。倫子は口にさえしませんが、まひろが漢詩につうじていることは、これまでの回で描かれた赤染衛門を中心に、繰り返された女御の会でわかっている前提です。言外にまさかあなた?と聞いているようで、、、

『源氏物語』には玉鬘にいいよる男の文を、光源氏が寸評するという展開があります、、、

さて、来週は巨星兼家がいよいよのやうで、、、、










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2024年04月05日

懸想文なく女御を尋ねる柄本道長。日記中に逢瀬の野暮を記される父兼家

〜 光る君へ 十二夜「思いの果て」〜

柄本佑道長との婚礼が成らなければ、猫を愛でて生涯を終えますと、父益岡徹.源雅信にかこつ黒木華倫子には笑いました

まひろへの想いを断ち切ろうと、そんな倫子の元を前触れなく柄本道長は尋ねるわけです。礼を失した訪れに倫子の母石野真子.穆子は通すことを家従に命じます。道長婿取りについては、気乗りがしない雅信を穆子が口説くことで実現したと、『大鏡』にあることをこれまでも紹介してきました。これを反映しての穆子の判断ということでせう

文、懸想文のやりとりもなく訪れるというほどの、乱暴・無茶な所業とはいえませんが、当時の常識からするとハテナと思わせる行動を道長の父、兼家がおこなったことを『蜻蛉日記』中にその妾、財前直美さん演じる道綱母・寧子が記します

『蜻蛉日記』は兼家との生活を中心に描かれた、最古の女流日記。その冒頭近くに、絶世の美女だとウワサの寧子への兼家の懸想が記されます。寧子の父が乗り気でなく話が進まないなか、兼家は僧兵による強訴さながらに寧子への文を従者に届けさせます

〔更級日記・原文〕
 それはそれとしてかしはぎの木高きわたり〈藤原兼家〉よりかくいはせむと思ふ事ありけり。例の人はあないする便もしはなま女などしていはする事こそあ
 れ。此は親〈藤原倫寧〉とおぼしき人にたはぶれにもまめやかにもほのめかしゝに、ひけきことし〈びなきことゝイ〉いひつぎをも知らずかほに、馬にはひ
 乘りたる人して打ちたゝかす。たれなどいはするはおぼつかなからず騷いたれば、もて煩ひ取り入れてもて騷ぐ

〔更級日記・現代語訳〕
 兼家から求婚のお気持ちを伝えられた。常識的な人であれば、相応の人に頼んだり、邸の女房を間に立てて、取り次がせるものだが、兼家は、わたしの父
(藤原倫寧・正四位下、伊勢守、いわゆる頭領階級)に直接、冗談なのか本気なのかほめかした。父 が「恐れ多い、釣り合いが取れない」 と言うのも知らぬ
 顔で、馬に乗った使者を寄こして門をたたかせた

超訳すれば、懸想文などというものは、しかるべき人や自身の女房に持たせるのが常識だが、兼家はこともあろうか騎乗の従者に届けさせるというなんとも野暮なことをやった。その上、当の従者は遠慮もなく、わが家の玄関をうるさく叩いた、、、

と、、。柄本道長の倫子との逢瀬は常識破りだとはいえ、美しい映像にまとめられました。一方、史実上の道長父・兼家は、その野暮な所業を日記に記されて1200年が経た現代にさらされているのでした、、、、



倫子の愛猫・小麻呂

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2024年04月01日

サクラの名島・福岡城,老松花見弁当付き・教室「名島城・福岡城の歴史」


3月27日9:00 天神日本銀行福岡支店前集合、中型貸切バスで名島城へ、、、


9:30名島海岸到着。海岸で地形の変遷、妙見島の位置、リンドバークが愛機「シリウス 」で着水した名島水上飛行城の位置など説明。
画像/名島地区航空写真.昭和28年:九大ヨットハーバー・九州電力名島火力発電所・名島城跡・妙見島・名島水上飛行場


画像/上.左:九大ヨットハーバー・九州電力名島火力発電所・名島城跡の丘陵、遠景は立花山/右:妙見島遠景/下.左:立花山を背景に、名島水上飛行場のドルニエ水上飛行艇/右:リンドバーグ夫妻を乗せて名島水上飛行場に到着したシリウス


左.半島戦の帰路、神功皇后が船を舫ったという帆柱石。右.名島城本丸跡から多々良川上流方面。地元の研究家宗さんの案内をお願いする、、


名島城本丸跡の臥龍サクラは、五輪ほどが開くだけ。参加者の皆さんには、申しわけない次第。これまで3年繰り返してきた、サクラの時期のイベント。はじめて満開期を外したのでした。そして、福岡城へ


画像/左.奥村玉蘭『筑前国名所図会』千賀浦古跡図/右.ロイヤル花の木西側から福岡城の森

まず、大濠を介して、福岡城を望むスケッチ、奥村玉蘭『筑前国名所図会』千賀浦(現・大濠)古跡図と同じ方向、大濠公園西側(大濠花の木西側)から福岡城を望んでもらう。千賀浦古跡図中央には天守台の南の守り、三重の武具櫓。現在の南公園、大休山方面、南から降りてくる福岡城の丘陵が大濠に落ちる左手には小さく、現在、復元再建中の潮見櫓が描かれる。潮見櫓は平成7年には復元を終え、公開。浜ノ町(現中央区舞鶴)黒田別邸へ移設され、大戦の空襲により焼亡した武具櫓が、つづいて再建されることになれば、大濠公園西側から福岡城を望む風景は千賀浦古跡図が再現されることになる。ただし、かんぽ生命センターのどいてもらわなけらば、潮見櫓を大濠公園から見るのは不可能、、、


左.武具櫓古写真/右.黒田別邸(現中央区舞鶴)移設時の武具櫓現場画像


左.宗福寺へ移設され仏殿として使われていた時代の潮見櫓/右.現在、復元建設中の武具櫓覆屋


クジラ公園から、福岡城三の丸西側へ進入。左手は再建中の潮見櫓覆屋。正面には下ノ橋御門と、平成3年の調査で潮見櫓ではないことが発覚、本丸裏御門横に建っていた古時櫓だとされ、現在は伝が冠される、伝潮見櫓。


下ノ橋御門と伝潮見櫓

松の木坂御門跡→本丸表御門跡→祈念櫓跡→中天守台・小天守台・天守台


左.大組櫓・松の木坂御門櫓・屏風櫓/右.現松の木坂御門跡


左.本丸裏御門古写真/右.本丸裏御門跡


左.令和元年9月に解体された祈念櫓/右.祈念櫓古写真
祈念櫓は板壁で復元されたいたが、右の古写真と実際上は違っていたことがわかっている



そして、この日の福岡登城最終目的地点、天守台下へ。天守台には、規制があり昇れない、、、


【同日福岡城攻城関係要図】A.集合場所・花の木横/B.再建潮見櫓(伝月見櫓)/C.三の丸広場・三ノ丸御殿/D.下ノ橋・御門伝潮見櫓(時櫓)/E.大組櫓・松の木坂御門・屏風櫓/F.本丸表御門/G.祈念櫓/H.小天守/I.鉄御門/J.天守台/K.多聞櫓/L.桐の木坂御門

名島・福岡攻城遠足詳細はこちら、、、名島・福岡攻城遠足レジュメ


そして「老松花見弁当」でお昼。今年も豪華だった!

お昼後、14:00より福岡市美術館ミュージアムホールにて教室「名島城・福岡城の歴史」
内容:名島=多々良川河口/名島城小早川期小早川隆景、筑前・筑後・肥前二郡拝領、名島築城/名島城小早川期・縄張/名島城・小早川期年譜 天正15年.1587〜慶⻑3年1598/名島城・石田三成代官・秀秋復領・黑田入部期年譜・慶⻑3年1598. 1月〜同6年正月/名島城・名島引け/福岡城・城地選定・命名/惣構/築城と天守閣
詳細はレジュメ参照教室「名島城・福岡城の歴史」レジュメ

那国王の教室レジュメ一覧
那国王の教室次回ご案内  


Posted by Frco.Don at 15:26Comments(0)歴史遠足・講演報告

2024年03月28日

大濠公園日本庭園広間で教室:「光る君へ」と筑前&煎茶会:源氏物語の菓子粉熟・古代の甘み甘葛で

NHK大河「光る君へ」での登場人物と筑前・福岡との関係を物語する教室と、古代の甘味「甘葛(あまずら)シロップ」を使い復元した『源氏物語』柏木の章に登場する菓子粉熟での煎茶会。茶葉は老舗・光安茶舗の100g/¥5.000「初霜」。お茶後は庭園散策の時間も、、、

日時:令和6年6月2日(日)13:00
会場:大濠公園日本庭園広間
https://maps.app.goo.gl/3t3DZtCJsgbW4xuk7
会費:¥5.000-(煎茶会費・資料代・入園料・一日保険含)
募集:30名
問い合わせ・申し込み
090-9404-4299
naou_yz@icloud.com


粉熟と古代の甘み甘葛シロップのボトル

教室 〜「光る君へ」と筑前 〜・詳細
「光の君へ」に登場する佐々木蔵之介・藤原宣孝は筑前守を受任し下向します。その妻となる吉高由里子・紫式部は、筑前へ下る友人との間に歌を交わしたことを日記に伝えます。ロバート秋山・藤原実資は筑前高田の牧を家領としていました。その日記『小右記』には、高田の牧にかわわる記述が多々みられます。井浦新・藤原道隆の子・竜星涼・隆家は太宰権帥として筑前へ下ると、外寇を制圧します。その末裔の一流は肥後菊池一族の祖といいます。『源氏物語』には筑紫の五節舞や、玉鬘の筑紫流離譚が語られます。そんな「光の君へ」に登場する人などなど、と、筑前関わりについて物語いたします。

煎茶会 『源氏物語』の菓子「粉熟」 古代の甘み甘葛で復元・詳細
『源氏物語』宿木の章に「宮の御方より、粉熟参らせたまへり」とあります。その製法は鎌倉時代に著された『源氏物語』注釈書『原中最秘抄』に「粉熟は稲(米)、麦、大豆、小豆、胡麻などの粉に、甘葛(あまずら)を加え、こねた物をゆでて餅のようにつくり、竹筒に入れてしばらく置いた後、突き出して切り出す」とあります。

ここにある古代の甘み「甘葛」を奈良女子大.大和・紀伊半島学研究所古代学・聖地学研究センター協力研究員前川佳代氏が長年の研究の末、甘葛シロップとして復活させました。那国王の教室いにしえ菓子研究部は、『原中最秘抄』中のレシピを参照に、前川教授制作の甘葛シロップを使い『源氏物語』の菓子「粉熟」を制作しました。


国宝 源氏物語絵巻〈柏木 三・宿木 一〉 徳川美術館/柏木の子、薫を抱く光源氏の前に並ぶ、菓子を盛る高坏

甘葛シロップ抽出中、、、

大濠公園日本庭園遠景

大濠公園日本庭園枯山水

広間露地

広間玄関

広間・茶菓子

広間・広縁

大濠日本庭園公式HP
https://www.ohoriteien.jp
那国王の教室・報告集
https://frcodon.yoka-yoka.jp/c60037.html
市政だより情報BOX案内ページ
https://www.city.fukuoka.lg.jp/shicho/koho/fsdweb/2024/0401/1207.html







  


2024年03月17日

出家後も女御を漁る花山天皇・一条天皇に除目を抗議、撤回を実現する為時

〜 光る君へ 十一夜「まどう心」〜

前回の兼道に騙されての出家、そして廃位という悲劇に引き続き、今夜は、新帝、一条天皇即位を呪詛する先帝・花山天皇の壮絶な姿が描かれるわけです
それは、もう、ドラマ中の花山は哀れなわけです。が、果たしてそうだったのだろうかという話が伝わります



長徳二年995一月十六日。長徳の変とよばれる事件について『小右記』で藤原実資が報告します。花山出家9年後のことです
今夜、兼家と長男道隆一家との宴に、招かれなかった道兼が怒鳴り込むという場面がありました。そこで道隆の長男伊周が安倍晴明に一言かけていました
この伊周と弟隆家とが、いまや法皇である花山院の車を襲い、院の袖を射抜いてしまいます

藤原伊周は故太政大臣藤原為光の娘三の君の元に通っていましたが、その妹四の君藤原儼子の元に花山院が通っていました。姉妹ふたりは花山院が溺愛し、出家の原因にもなった故藤原忯子の妹でした。そうした関係のなか、伊周は花山院が妻問のは、自分が通う三の宮と勘違いして事件を起こしたのでした

出家し院と呼ばれるようになっても、花山は妻問をつづけていたということを報告してくれる事件です

第二夜で扇子を足で操るりながら、母娘ともども抱いてやったと、伺候する為時を揶揄うように花山が言うシーンがありました。この母娘ともども遊んだという話は出家後のこととして『大鏡』に記されています。

花山出家後の女性との話として、その母娘の主人の女御とも戯れた。大極殿高御座で女官と交ったというとんでもない話も伝わります。花山は出家後も何臆することなく妻問をつづけていたのでした。そんな素行の人が果たして悲劇の人といえる?と、そう思うわけです。花山は帝位を追われて却って幸せだあつたのでは?とさへ思うわけです



また今夜は、無職になった為時に職を求めてまひろが摂政になった兼家を訪ねるシーンがありました。なかなか、冷酷なシーンでした
紫式部が父のために猟官に動くというのは史実として考えられませんが、為時自信が除目に不服で抗議するということが『古事談』にあります

同年正月二十五日の除目で為時は淡路守に任命されます。当時、国々は大国・上国・中国・下国と四段階で評価されていました。そして淡路は下国。淡路守叙任を聞いた為時は「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」(懸命に勉学に励んだ報われない、血の涙が襟をぬらす、もし、除目が改められば「蒼天」・一条天皇一層忠勤を誓う)と漢詩を一条天皇に贈ります。

天皇は、その詩の内容にほだされて、為時への除目を撤回、為時を上国越前の守に叙任するのです、、、、



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紫式部・吉高由里子日記・目次リンク

〜 光の君へ 〜次回予告Movie

那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演 歴史遠足予定

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2024年03月17日

福福岡城内を牡丹・芍薬・藤・菖蒲とお花見遠足&講演「黒田藤巴、実は使われていなかった」

「那国王の教室」歴史遠足・教室:福岡市後援

初夏の花々、牡丹・芍薬・藤・菖蒲が咲きほこる福岡城を歴史遠足。福岡市美術館レクチャールームで「黒田藤巴紋は使われていなかった」をテーマに教室です。

集 合:令和 6年5月11日(土)13:00福岡城下の橋
参加費:¥3.500-(1日保険含む)
問い合わせ・申し込み 
Tel.090-9404-4299
mail: naou_yz@icloud.com

【当日の予定詳細】
13:00福岡城下之橋集合→福岡城牡丹芍薬園→名島門横藤棚→松の木坂御門跡→本丸裏御門跡→鉄御門跡→天守台→武具櫓跡→菖蒲池→追い廻橋→14:30福岡市美術館レクチャールーム:講演「黒田藤巴紋は使われていなかった」16:00解散
Google map福岡城下之橋
https://maps.app.goo.gl/3NcRXnAyGjtQJXnn6

主催「那国王の教室」福岡市東区大岳3-21-1-301
後援:福岡市
福岡市政だより4月15日号情報 BOXweb版ページ
https://www.city.fukuoka.lg.jp/shicho/koho/fsdweb/2024/0315/1107.html


丸餅紋が鍬形の伝黒田長政所用「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」
福岡市博物館企画展示カタログNo.246 甲冑にみる江戸時代展2-大水牛と桃形の系譜-より


伝伝黒田長政所用永楽銭紋陣羽織
特別展 黒田長政没後400年 黒田侯爵家の名品 知られざる黒田家「家宝」の近代史 より


福岡城牡丹芍薬園横の伝潮見櫓と下之橋御門

  


2024年03月10日

望月の歌の現代的解釈への伏線?花山天皇出家を予測できずメンツを潰される『大鏡』中の安倍晴明

〜 光る君へ 十夜「月夜の陰謀」〜

この夜は柄本道長とまひろ式部との恋愛と、いわゆる「寛和の乱」と称される花山天皇を騙しての出家・退位「せめおろし」が描かれます
それにしても、月の夜の、どこかあばら屋での道長とまひろの逢瀬のシーンは美と官能が入り混じり迫ってくるのです

「海の見える、どこか遠い国へ、今日、今から二人でいこう。ふたりで暮らそう」という道長にまひろは「アナタには下々の民がまっとうに暮らすことができる国をつくる使命がある。アナタはそのために生を受けたのよ」と聡し拒絶



知られた道長による「望月の」云々の歌は道長自身の栄華を自画自賛するものではなく、望月の欠けることがないような、人々に豊さと安心をとどける私の治世が続くように、という気持ちを歌うのだという、現代風の解釈があります

満月の夜に、ようするに駆け落ちしようという道長に対して、道長に与えられた仕事、運命を式部が説くというのは、望月の歌の現代的解釈への着地を目指すための伏線かな、などと意地悪にみるのでした

紫式部日記中に読み取れる道長と式部の関係は、あくまで主人と仕える女房の姿ですから、官能美で描かれる二人には幾分違和感を催すのですが。しかし、そこはまあ、物語ですし、、、




さて、「光る君へ」での「寛和の乱」は、段田兼家の諮問に応えて、サンタマリア晴明が宿星を占い決行されました
一方、『大鏡』花山紀には、この事件の発生を予測できずメンツを潰された晴明の姿が描かれます

道兼に導かれた花山天皇は牛車で清涼殿を抜け出し、落髪する山科元慶寺へとむかいます。その際晴明邸の前を通るのですが、晴明は「帝おりさせ給ふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな」と慌てます。退位の兆しの天変に気付いてはいたが、既に事はなったのかしくじったというわけです

それで慌てて「参りて奏せむ。車に装束疾うせよ」、宮中に報告に発つぞ、はよう牛車を用意せよと晴明は花山天皇の車を見送りながら家人に命じるのです

これはつまり、天変の予兆を報告するという職掌を怠ってしまい、または、予兆の感知を誤ったということであり、当代随一とされた陰陽師・安倍晴明の顔がまるっと潰されたと、『大鏡』は伝えるわけです

さて、来週はいよいよ、まひる式部と父為時の「海の見える国」への旅立ちとなるのでせうか、、、



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那国王の教室・志賀島航路とJRうみなか線DENCHA満員計画クラブ・講演 歴史遠足予定

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2024年03月08日

登山するカエル

 福岡県太宰府市と筑紫野市にある国指定史跡・宝満山(829メートル)を登るヒキガエルが、太宰府市の市民遺産になった。地元の保護団体「宝満山ヒキガエルを守る会」によると、例年5月から1か月あまりかけて、麓の池から山頂を目指すとされ、市景観・市民遺産会議で14日に認定された。

読売新聞より、、、
https://www.yomiuri.co.jp/science/20201015-OYT1T50161/




山頂を目指すヒキガエル(2017年6月、「宝満山ヒキガエルを守る会」の渡辺利久男さん撮影)
山頂を目指すヒキガエル(2017年6月、「宝満山ヒキガエルを守る会」の渡辺利久男さん撮影)
 同会によると、ヒキガエルは太宰府市内の麓にある池2か所で、5月中・下旬頃、オタマジャクシからカエルになり、1万~10万匹が林道の側溝や登山道の石段をよじ登り、山頂に向かう。高低差約600メートル、2・5キロほどを歩き、100~1000匹が6月下旬~7月初旬頃、山頂に到達するとされる。数年後には再び麓の池に戻って繁殖行動をするとみられる。

 2010~11年、会員が池でカエルが産卵し、大量のオタマジャクシが孵化ふかすることを発見。佐賀大名誉教授の田中明さん(76)(環境情報学)が16年に「登山」の様子を確認した。田中さんは、宝満山以外でヒキガエルが山頂を目指す状況は確認されていないとしており、「はっきりした理由はわからないが、多くの登山者の靴底が運ぶカエルのにおいを追って登っている可能性がある」とみる。

 同会は、カエルを観察し、踏まないよう注意を呼びかけるポスターを掲示するなどしており、「神秘的な生態を持つカエルの尊さを知り、宝満山の自然と歴史への愛着を深めてほしい」としている。


  


Posted by Frco.Don at 23:43Comments(0)たろうな日々

2024年03月03日

『大鏡」中の花山天皇出家と安倍晴明/実資日記『小右記」中の義懐への文句

〜 光る君へ 九夜「遠くの国」〜



オープニング。先週放映された散楽一座が、盗賊を働こうと忍び込んだ東三条殿で捕らえられたシーンが再び。
家人たちへ「検非違使へ連れていけ」と、その後の処理を命ずる道長の姿に、バッハ無伴奏チェロ組曲が、



道長が現れる重要なシーンには流されるな、と。鳥野辺で遺体に変わった散楽一座をまひろとふたり、素手で埋葬する場面でも、深く重いバッハ無伴奏チェロ組曲が。チェロの音域はどの楽器よりも人の発声の域に近いそうで、、

チェロに限らず、バイオリンやビオラも使用されて、、。人の心の律動を拾うのには、くみとるのには、弦楽器が他の楽器にくらべて優れているそうで。魔物の存在がその精神空間に占める、平安朝の人々の心理を拾うのには、弦楽器以上のものはないなと思うわけです

で、ドラマは花山天皇出家への誘導、そして退位へと話が進んでいきます。そもそも、兼家外孫・懐仁親王が東宮としてあるという状況では、花山天皇は即位と同時に退位を迫られる巡り合わせにあったのです、

花山天皇が即位すると同時に、早々に退位に追い込むことが兼家にとっての課題でした。

花山天皇退位への筋書きはサンタマリア晴明。



複数ある花山天皇退位事件「安和の変」についてふれる史書中、晴明の関わりについてふれるのは、唯一『大鏡』です
『大鏡』によると、花山天皇が出家を果たそうと元慶寺にむかう途中、安倍晴明邸の前を通ります。その際、先を急ぐ花山天皇の姿を認めた晴明が
「もう、ことは決まっている」と口にしたというだけの話。兼家と晴明の謀議は、「光る君へ」のオリジナルストーリーです

花山天皇出家前年、寛和元年985秋に、北極星へ接近する星が激しく輝いたという天変を晴明は観測。花山天皇の慎みにかける態度が引き起こした凶事だと奏上。兼家とのあいだに画策、謀議を巡らすとは、史書上には描かれてはいませんが、花山天皇退位への予兆を観測していました、、、

そして、ロバート実資。義懐の出世を愚痴る実資に、奥様が「日記にお書きなさい」と。実資は、「書かぬかかぬ」と実資は不機嫌に返事
実は実資の日記「小右記」には、義懐らの花山天皇側近抜擢について「奇々怪々」と腐しています



チェロをはじめとした弦楽器の音色に、まひろ式部の表情は沈む。通奏低音が重い45分間を奏でた今夜でした、、、、

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2024年03月03日

ウメの福岡城歴史遠足と教室「福岡城命名3つの異説」

令和6年3月2日(土)13:00・大濠公園ボートハウス横集合。この度は寂しく、こじんまりとご参加2名、写真係パンダと私合わせて4名、、

大濠の向こうに見える大休山・南公園丘陵から降りてきた、尾根筋に築城された福岡城の景観を、玉蘭「筑前名所図会」にある福岡城スケッチとてらし合わせながら江戸時代の風景を脳内再生

060302歴史遠足レジュメ


奥村玉蘭「筑前名所図会」千賀浦古跡図/現大濠公園。中央に三層の武具櫓。左手、福岡城丘陵が海に落ちる部分に小さく、現在、三の丸広場に復元再建中の潮見櫓が描かれている


大濠公園から福岡城内郭に入った地点。現在の三の丸広場西側。左)福岡城内郭西側、大濠汀の土手跡。右)復元再建中の潮見櫓現場前



伝潮見櫓下ノ橋御門。現在再建復元中の潮見櫓との関係、火災にあった下ノ橋御門の再建経緯など、ひとくさりやりながら、、


左)松の木坂御門跡/右)古写真・左から大組櫓・松の木坂御門櫓・屏風櫓
以下、古写真と照合しながら本丸表御門跡祈念櫓跡小中天守台跡→武具櫓跡→鉄物櫓追廻橋跡福岡市美術館へと歩く


本丸表御門と同古写真


祈念櫓と同古写真。祈念櫓は茶室に使われていたともいう、、、


小中天守台から。天神方面を望む。古写真なし



南の丸武具櫓跡石垣と、武具櫓古写真。武具櫓は、福岡城最長・最高×12,5mの南の丸石垣の上に長さ 63m・幅 9m、二階多聞櫓が9m、三階櫓12.7mをのせていた。三階櫓の規模は伊予松山城天守閣に匹敵した


武具櫓は兵営として福岡城が接収されると、現在の中央区舞鶴にあった黒田別邸へ移築された。左)移築作業中の武具櫓骨組.右)黒田別邸移築後の武具櫓


お気に入りのポイント、多聞南隅櫓を見上げるお気に入りのポイントを通過して、本日の歴史遠足最終点・追廻橋跡・鉄物櫓跡へ、、、


追廻橋跡・鉄物櫓跡と同古写真。追廻門橋は、下ノ橋・上ノ橋と三つかかる福岡城内郭へは入る橋の一つ。その名称は外角側に厩があるウマを追い回して出入りさせたいたところから。そして教室・講演会場の福岡市美術館へ


福岡市美術館。進藤一馬初代館長像前

060302那国王の教室「福岡城命名三つの異説」レジュメ

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Posted by Frco.Don at 14:09Comments(0)歴史遠足・講演報告

2024年03月01日

刻まれた少女の体は食物に変わる祭儀と、保食神を殺す月読神、保食神を殺す須佐之男命

『日本書紀』に月読神が保食神(ウケモチノカミ)を殺害する話がある。『古事記』にはスサノウが大宜都比売神(オオガツヒメカミ)を殺害する話がある。いずれの話も殺害された女神の体から食物が生成する。

これら神話の原型としての祭儀がニューギニアでおこなわれた。

【マヨ祭儀・ニューギニア・マリンドアニム族】
いよいよマヨ祭りの頂点をなす、つぎのような凄惨な儀式が行われる。
「殺す父」と呼ばれる男が、儀礼のなかだけで使われる特殊な武器を携えて登場し、「マヨ娘」あるいは「マヨ母」と呼ばれる生贄の少女を殺害する。この少女は殺される前に、そこにいるすべての男たちによって犯されねばならない。彼女の肉は食べられ、骨は一本一本の椰子の根本に分けられて埋められ、血は椰子の幹に塗られる。

吉田敦彦「日本神話の源流」第三章〜神の殺害と農耕の起源〜p65

食物生成神話譚。ヤーウェヌ型神話と称されるこれら、祭儀と神話。女神の体は死と引き換えに食物に変えられる、、、


画/安田靱彦「保食神(うけもちのかみ)」  


Posted by Frco.Don at 17:11Comments(0)記紀抄

2024年03月01日

サクラの名島.福岡城歴史遠足と教室と老松花見弁当

名島城の巨大な臥龍桜・全城サクラの福岡城を歴史遠足。お昼は、博多の老舗料亭「老松」の花見弁当。午後、福岡市美術館ミュージアムホール講演は「名島・福岡城の歴史」

【当日予定詳細】
9:00天神日銀前集合:貸切バス→名島城→11:00福岡城上之橋駐車場.老松花見弁当配布→天守台→自由散策→教室「名島城と福岡城の歴史」福岡市美術館レクチャールーム・ミュージアムホール

集 合:令和6年3月27日(水)
am9:00福岡市中央区天神日銀福岡支店前
参加費:¥6,000-(交通費・老松花見弁当・1日保険含)

問い合わせ・申し込み 
Tel. 090-9404-4299
mail: naou_yz@icloud.com

主催:「那国王の教室」
福岡市東区大岳3-21-1-301
後援:福岡市
福岡市政だより情報BOX案内ページ
map集合場所:日本銀行福岡支店


@福岡城天守台.黒豆も花見


@名島城臥龍桜


@名島城の桜.海から


@福岡城鉄御門跡の桜


@福岡城鉄御門下と桜


@福岡城二の丸の桜


@福岡城本丸の桜
  


2024年02月28日

宗像三女神、織縫神としての文献資料、民俗・考古資料

・文献資料

★三女神親神・須佐之男神による「忌機屋(聖なる機織り屋)」への悪戯についての神話(古事記・高天原誓約の段)

★大国主神と宗像三神の一、タギリヒメ神の子、ソトオリヒメ神が兄のアジスキタカヒコネ神を唱う歌唱に「機織り」が出て来る(古事記・天孫降臨の段)

★宗像社境内末社、縫殿神社の祭神・兄媛渡来説話(日本書紀 応神四十一年)

・民俗・考古資料

★宗像沖ノ島祭祀を継承したものがあるとされる伊勢神宮祭祀に、「神御衣祭」(かんみそ祭・毎年、四月・十月に新たに織った絹と朝の布帛を奉る)が伝わる。

★沖ノ島黄金谷出土「金銅機織雛形」

★宗像氏族墳墓・新原奴山古墳群在の奴山集落への縫殿神社鎮座

★同縫殿神社は元、新原奴山古墳群中の22号墳上に在った。

★新原奴山古墳群近接の弥生時代住居跡から紡錘車など織縫関連の遺物の出土

★宗像社境外末社に幟を織ることで戦勝を導いた説話を創建縁起にもつ織幡神社がある

※画像/伊勢神宮・神御衣祭 御料 (神宮HPより)


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Posted by Frco.Don at 11:11Comments(0)三女神の海

2024年02月25日

道長、倫子婿入り問題/仇を前に琵琶、、、

〜 光る君へ 第8回「 招かれざる者」〜

さて、道長、倫子婿入り問題です。

何回前でした、すでに触れましたが、今回描かれているように、道長姉・東三条院詮子、そして倫子の母・繆子がふたりを結ぶことに積極的で、倫子父・源雅信は反対であったという構図は、道長、倫子婿入り問題についての古くからの物語です

ただし、その発端は、花山天皇側近、権中納言に昇進した藤原義懐の専横を牽制する目的で、左大臣・源雅信との連携を強くするべく、ひいては雅信にその娘倫子への道長の婿入りを求めた段田兼家だという設定では話が、ちと、違うのです

『栄花物語』によると、、

兼家は、道長が未だ三位中将であることから「位などまだいと浅きが、かたはらいたき事」と、左大臣家の倫子の婿に道長を出すことに躊躇があったようで

一方、雅信は道長のことを「口わき黄ばみたる主」つまり、クチバシ黄色い未熟者だと。「あなもの狂をし」、ばかばかしとまで言っています。雅信は人として道長を嫌ったようです、、

一方、雅信奥様の繆子は、道長は買い!、だと「この君、ただならず見ゆる君なり」・「われに任せたまへれかし」と、ふたりの結婚を「ただ急がせ給う」たそう。それで止むなく雅信も了解したのだといいます

道長姉・東三条院詮子は、倫子とのあいだだけではなく、第二夫人・源明子との縁もたぐりよせます
倫子は宇多天皇曽孫、明子は醍醐天皇孫。道長と詮子姉弟は、一族ごとを天皇外戚に高めたのです、、、

で、ふたりの馴れ初めについては「この三位殿、この姫君をいかでと心深う思ひきこえ給ひて」とあり。道長が倫子を見染めたという、第八夜、今回の「光る君へ」とは逆の恋の形を伝えます、、、

まひろ式部と柄本道長の恋の行方を「光る君へ」は通奏低音として奏でます。道長が倫子へ首ったけでは物語が破綻しますから、ね、、

はて、

柄本道長には、本人の意思とは別に婚礼の話が進むなか、まひろ式部は、仇を前に琵琶をかき鳴らすのです。それでなくても重い音をだす琵琶。道兼 を前にまひろ式部が奏でる音は、重さに闇、そして悲しみの溝をくわえたものでした、、、、、

次回は、遠い国へ、、、。
まひろと岸谷為時には、海が見える国、遠くの国への旅が待つのですが、、、




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2024年02月23日

職隆墓石と重隆・明石女墓誌と孝高、重隆子・職隆養子説

播磨御着城址(兵庫県姫路市御着)には、孝高祖父・黒田重隆と父職隆室明石氏女の墓塔が建つ。寛政五年1793、現在の兵庫県姫路市御着の御着小寺後裔という、天川久兵衛屋敷内からふたりの墓誌が発見された。かつての黒田主君小寺の居城の近く「筑前様御部屋跡」といわれていた場所。福岡藩は山口武乕を派遣し整備させた

十年前の天明三年1783秋には姫路城東南の妻鹿(めが)村(兵庫県姫路市飾磨区妻鹿)で、職隆墓石が発見されている。山本喜右衛門が派遣され、玉垣(たまがき)を廻らせ、上家(うわや)を新築し墓石を祀る

10年を前後して職隆墓石。そして、その父と職隆室明石女、つまり孝高母の墓誌が発見された。不思議なのは職隆とその室明石女の夫婦がそろう形で墓石なり墓誌なりが発見されなかったのか

どうしたわけで、職隆室明石女と姑にあたる重隆の墓誌が発見されたのか

山本喜右衛門は報告書「姫路御古墓記」に、孝高は重隆の子で小寺当主職隆の元へ養子に入ったという播磨出張中に採取した話を記している

天明三年発見の墓誌は、重隆と明石女を夫婦とするもので、二人のあいだに生まれたのが孝高と推測すれば、孝高は小寺職隆の元へ養子に出たという武乕採取の話が整合性をもつことになる、、、


黒田職隆墓石塔図
  


Posted by Frco.Don at 17:40Comments(0)シメオン官兵衛孝高

2024年02月23日

大嘗祭祭儀の始源、阿曇神話・海幸山幸神話と龍神

龍神と綿津見神の混同に応える一文、、、



さて、龍です。

漢高祖・劉邦は、龍が父。龍と結ばれた母が産んだという伝承をもちます(『史記』)。

古代中華の魔物辞典といえる春秋戦国時代(BC770~221)成立の『山海経』に、始祖黄帝は龍に乗ったとあります。

高麗始祖王・東明王の母は河伯の子だといいます。(『魏書』『隋書』『周書』各高麗伝 『三国史記』『広開土王碑文』)。河伯は、つまり龍。

新羅始祖・朴赫居世の妃は、龍の脇から生まれたといいます(『三国史記』『三国遺事』)。

世界最古の龍を象る遺物が、BC4000年頃のものとされる、西水披遺跡(現共産中国河南省濮陽市)遺跡から出土しています。遺体を取り巻き敷き詰められた、貝殻で描かれた龍だそうです。昨夏には、BC4500~3000年の遺跡と考えられるモンゴル自治区彩陶坡遺跡から龍頭の飾りが出土しました。

そういえば『ゲド戦記』に龍、ドラゴンが活躍するな、と、思い出してネット上での確認ですが調べてみると、ギリシャ・ローマ神話、メソポタミア神話、ケルト神話、ゲルマン神話、いずれにもドラゴンが登場します。

では列島、豊秋津島国ではどうでせう。

記紀神話中の始祖神話、ニニギノ命の降臨。ホスソリ命・ホスセリ命・ホオリ命が活躍する海神宮巡遊、いわゆる海幸山幸神話。そして、アメノオシホミミ命からスサノオ命・ヒルメムチ、イザナギ命・イザナミ命、タカギムスビノカミへと遡りますが、どこにも龍の登場はありません。

ホオリ命とのあいだにウガヤフキアエズノ命を産んだ、トヨタマヒメ命が産室で化身した姿はヤヒロノワニであり龍、ドラゴンではありません。スサノオ命がクシナダヒメノ命を救おうと戦った相手はヤマタノオロチ。大蛇。

ギリシャ・ローマ神話中の人界始祖神話、朝鮮始祖王神話と、海神宮巡遊神話、イザナギ・イザナミ神話との間には共通する話素が多々あります。

東西をトルコ系騎馬遊牧民、スキタイ系騎馬遊牧民が共通する話素でつないだのだろうとは、現代の比較神話学界では通説です(大林太良・吉田敦彦・守屋俊彦・松前健・松村武雄・次田真幸)。

ここで不思議なのは、海神宮巡遊神話、イザナギ・イザナミ神話が形成されたと推測される、縄文時代中期から弥生時代前期には、龍、ドラゴンを登場させる神話が半島まで届くのですが、列島まで降りてくることはなかったということです。この件については、ただただ、謎だと考える他なく、説明する理屈の持ち合わせはありません。

さて、しかし、それでも、道教の流入がはじまる古墳時代以降には、古墳からの出土品に龍頭鉄剣がみられることや、宇多天皇即位時、仁和三年887に黄龍が現れたとの報告がなされる(『扶桑略記』)。10Cの船載品と考えられる宗像神社の金銅製龍頭など、龍神信仰につながる事物がみられるようになります。

これらは、海神宮巡遊神話、イザナギ・イザナミ神話が成立するのに遅れて、古墳時代以降に豊秋津島国に流入した龍神信仰の流入を示唆する事象や遺物ですが、龍神信仰は、あくまで河川と降雨への信仰であり、荒川絋氏が著書『龍の起源』で「代表的な龍が黄河の神である河伯である」と述べるように水神への信仰なのです。広く海洋を主宰する神、綿津見神への神祭りとは異なります。

中世にいたり、海神宮巡遊神話の舞台、ワダツミノイロコノ宮を竜宮城と記すようなことが起こったところから、水神信仰である龍神信仰との混同が始まったのでせうが、神祭りとしての内容、質は異なります。

これまで日向神話と呼ばれて、隼人族が伝承する神話とされてきた海神宮巡遊神話ですが、守屋俊彦氏は「そこで思うにこれはもともと阿曇氏の管理していた降神の儀礼であったのではないだろうか」(『記紀神話論考』雄山閣p363)と述べます。海神宮巡遊神話、海幸山幸神話は、阿曇氏が伝承する降神儀礼の神話化だということですが、同説も現在の比較神話学では、最も有力な説として通っています。

同神話は、天津神と綿津見、つまり海神とのあいだの婚姻、共食、犬の遠吠えなどの話素から構成されますが、これは大嘗祭の祭儀に通じます。そうした点から、同神話は「大嘗祭儀を反映したもの」([海幸山幸神話の形成と阿曇連」次田真幸『日本神話研究』3p119)と松前健氏は指摘します。翻って推測すれば、海神宮巡遊神話から再生される阿曇氏における、王継承についての祭儀が取り入れられて大嘗祭は、その形を整えたとも考えられます。

大嘗祭祭儀の原点とも考えられる、綿津見神信仰、阿曇の神祭りは、龍神信仰とは全くことなるものです。

画/青木繁「ワタツミノイロコノ宮」
  


Posted by Frco.Don at 00:23Comments(0)三女神の海

2024年02月22日

〜雉の頓使(ひたつかひ)〜古事記・上

 ……即ち天若日子(あめわかひこ)、天つ神の賜へりし天(あめ)のはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉(きぎし)を射殺しき。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆(さかしま)に射上げらえて、天の安の河の河原に坐す天照大御神・高木神の御所(みもと)に逮(いた)りき。……其の矢を取りて、其の矢の穴より衝き返し下(くだ)したまへば、天若日子が故床(あぐら)に寝(いね)たる高胸坂(たかむなさか)に中(あた)りて死にき。〈此れ還矢(かへりや)の本なり。〉亦、其の雉、還らざりき。故、今に諺に「雉の頓使(ひたつかひ)」と曰ふ本は是れなり。(古事記記・上)

【現代語訳】
下界を巡察せよと命じられた天若日子(あめわかひこ)。三年を経ても復命がなかった。天つ神はいぶかりキジを使いにやる。これは「雉の頓使(ひたつかひ)」という語のはじまり。天若日子これをわずらわしいと、かねて天つ神より与えられたアメのはじ弓・アメのかく矢をもち、使いの雉を射殺すと、その矢は
天の安の河の河原に至る。天照大御神・高木神は、その矢を下界に投じると、天若日子の寝所に至り、その胸を突き通した。還矢とはこのことをいふ、、


画/若冲「雉子頭」  


Posted by Frco.Don at 10:05Comments(0)記紀抄

2024年02月19日

花山天皇・忯子と桐壺帝・桐壺/雨夜の品定め的布石/兼家の怒りをたたえた笑い、、

〜 光の君へ 第7回「 おかしきことこそ」〜

花山天皇中宮・忯子薨去ではじまる今回。寛和元年985.七月一八日。忯子は、寵愛をうけた花山天皇を遺して世を去ります。事実としてあった、二人の関係は『源氏物語』第一帖〜桐壺〜に描かれる、桐壺帝と光源氏の母・桐壺更衣との物語のモデルといわれます


桐壺。その名は、後宮中、最も身分が低い女御に与えられる桐壺を与えられたところからでした。桐壺帝からの寵愛は、当然のように皇后の立場にある弘徽殿女御ほか、他の女御たちからの嫉みをうけ、心労から早世します。忯子は、宿した子と共に逝去。桐壺は、光源氏を産み三年後の逝去。この点が異なります。もっとも、桐壺とともに光源氏が死んでしまうようでは、『源氏物語』は成立しなくなるわけで、、、


奇行と忯子との恋愛で知られる花山天皇ですが、史実としてあることは、側近・藤原義懐を重用しての荘園整理令への取組です。天武天皇以来200年、公地公民の制による中央集権的土地制度が崩壊しつつあることへの楔。醍醐天皇の延喜二年902年に最初の荘園整理令が出されますが、徹底をはかることができませんでした。第5回「告白」では、花山天皇が強行する荘園整理令に対し、右大臣・段田兼家、左大臣・益岡雅信、関白・橋爪頼忠の三者が「われらが標的」と、口をそろえて言う場面がありましたが、臣下に不平を誘うほどの仕事をした花山天皇です

さて、打球が終わると、雨の中、倫子のペットの猫が飛び出すのを追いまひろ式部は、道長らが更衣に入った控えの壁越しで話を聞くことになります。雨、そして男たちの女性観の披瀝。これは、三歳で母桐壺と死に分かれた光源氏も十七歳。五月雨の夜、頭中将らと女性を品評。俗に「雨夜の品定め」といわれる第二帖〜帚木〜にある話へのオマージュ

まひろ式部は、「出世のために身分の高い家の女を正妻におき、毎夜、気に入った女の元に通うことだ」という、男たちのあいだに交わされた品評の結論に、嫌悪すか、失望か、それとも、自身の身のほど知らずといえる柄本道長への思いを断ち切る思いからか、道長からの贈歌「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし 恋しき人のみまく欲しさに」を焼きます

男たちの、いわば女御定めを壁をへだててまひろ式部が聞くことになる、このシーンには不思議な感響を覚えるのです。まひろ式部、吉高由里子のやるせない表情に引き込まれる一方、男たちの会話の原典「雨夜の品定め」を書いたのは当の本人が困惑顔でいる、と、いうような、、

まひろ式部の『源氏物語』著述への布石となるシーンなのかもしれません、




岸谷為時が心が痛みますと、花山天皇とのあいだの間者役を外していただきたと懇願した時の段田兼家の冷たい笑い。「そうか、それは苦しいことであった。よかろう。悪かった」と、口にしながらの目の動き。笑みの奥の怒り。役者・段田安則の底の深さに怯えるのです、、

一方、矢部太郎乙丸は、兼家家家人に襲われるなか、逃げ足早く逃れるまひろ式部においていかれて気絶。その後「置いていくなんてヒドイ!」と愚痴るという、愛されキャラ


さて、来週は、その段田兼家が倒れ、まひろ式部は仇・玉置道兼を前に琵琶を奏すようで、、、

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